家康像。主家への忠義が重んじられるようになったのは江戸時代以降で、戦国時代には「力のある者が治める」、下剋上をよしとする気風があった。(徳川家康像/東京大学史料編纂所所蔵模写)

 大河ドラマでは「家康は、非業の死を遂げた正室・瀬名(築山殿)の遺志を継いで、戦のない世界を目指した」という隠れテーマがあるが、瀬名の遺志だったかはともかく、そのような考えにいたる土壌は十分にあったといえるだろう。

 鎌倉幕府以来の武家政権の原則にのっとると、領地の支配を許した者が主(あるじ)で、許された者がそれに従うという「主従」の関係になる。つまり、この段階で家康は事実上の天下人となった。さらに3年後の慶長8(1603)年、征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を開いた。名実ともに天下人となったのである。

豊臣家への家康の懸念

 だが、なおも懸念はあった。天下の名城・大坂城に豊臣家が健在だったからだ。秀頼と母の淀殿は家康が要求する国替えを突っぱね、諸大名とは異なり、江戸へ人質を出すことも拒んだ。これでは自分の死後、いつ豊臣と徳川に二分されての乱が起こるかわからない。

「そこで家康は、将軍職をたった2年で息子の秀忠に譲ったのです。政権を豊臣に戻すつもりはない。将軍職は徳川家が世襲するという決意表明でした」(小和田氏)

 家康は大御所となっても政権・軍権は握り続け、自らの目の黒いうちに豊臣家を始末する準備を重ねた。そして慶長19(1614)年、大坂冬の陣、そして翌年の夏の陣で豊臣家を滅ぼした。

 翌年、家康は静かに没する。己の生涯をかけて実現させた「家康の野望」が、260余年続く江戸時代という天下泰平の世をもたらしたのは事実である。(取材/構成・上永哲矢)

AERA 2023年11月13日号より抜粋

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