松田を呼んだ内舘陣営は何を求めていたのか。陣営幹部に聞くと、晴れやかな顔で言った。
「たくさんの選挙を見てきた松田さんの経験。やるべきことがわかると不安が解消されます」
松田は盛岡市長選挙の期間中も盛岡に入った。現地でも公選法の質問に答えるなど、陣営が安心して選挙運動に取り組めるようサポートしていた。
そして迎えた投開票日。20時に投票箱が閉まると同時に「内舘当確」が出た。内舘は支援者とバンザイをしたが、松田は淡々と撮影を続けた。
「結果が出たら選挙は終わりますが、次の選挙がまた始まります。客観視することが選挙プランナーの役割なので、自分はバンザイをしません」
松田が生まれて初めて選挙実務に関わったのは、2006年7月の滋賀県知事選挙だ。松田はその年の4月、京都精華大学の恩師・嘉田由紀子が知事選への挑戦を決断した際に、嘉田本人から「選挙を手伝ってほしい」と頼まれていた。
当時の松田は同大人文学部環境社会学科を4年で卒業した後、母校の入試広報課で嘱託職員として働いていた。松田は嘉田の選挙を機に大学を辞め、個人事業主としてPRプランナーを始めた。
ほぼ全員選挙の素人で 嘉田由紀子の選挙を戦う
嘉田が松田に白羽の矢を立てたのには理由がある。松田は学生時代からデザイン事務所で働いており、嘉田のホームページを手掛けていたからだ。大学職員時代には広報物の制作やイベントの運営にも関わった。広島生まれで人一倍正義感が強く、コミュニケーション能力も高い。嘉田はそんな松田を高く評価して選挙参謀に迎え入れた。
「松田さんは環境社会学科の第1期生。カメラマンやデザイナーとのつながりもあり、選挙では印刷物作りをはじめ、とても助けられました」
松田は嘉田選対の中心メンバーとして動き、若者を中心とする集会も取り仕切った。県内各地を回りながら「新幹線新駅の建設中止」や「ダム建設凍結」を訴える嘉田の選挙戦を間近で支えた。嘉田のメインコピーは「もったいない」。
06年滋賀県知事選挙は「三つ巴(どもえ)」の構図だった。3期目をめざす現職・国松善次を推薦したのは自民党、民主党、公明党。共産党は団体職員の辻義則を推薦した。嘉田は社会民主党の支持を得ていたが、情勢を次のようにとらえていた。