政治家を敵視しがちな有権者の言動に心を痛める。有権者と政治家がもっと近くなるためにも選挙権の行使を勧める。抑制的な公職選挙法の改正にも関心がある(撮影/門間新弥)

「私は第三の泡沫(ほうまつ)候補の扱いで、誰も私が勝つとは思っていなかった」

 嘉田選対の中心メンバーは、嘉田と松田と住民研究者の小坂育子ら数人だけ。最大の問題は、ほぼ全員が選挙の素人だったことだ。

「冗談のような話ですが、ポスターは選挙管理委員会が全部貼ってくれるものだと思っていました。知事選のポスター掲示場は県内約4900カ所。うちは数人しかいないんだけど……というところから始まった。急いで三浦博史さんの本を買って、松田さん小坂さん私の3人で読みました」(嘉田)

 松田は三浦の本から多くを学び、大いに参考にした。選挙はがき、マニフェストづくり、新聞折り込み、確認団体など、法律と資金の範囲でできることは取り入れた。嘉田のゼミ生や卒業生など、若者を中心に街宣車で県内を走り回り、県民を見つければ嘉田が一人ひとりの元へ駆け寄った。熱が伝わる。嘉田の選挙戦に触れた子どもたちは、いつのまにか「エンピツ持ったら、かだゆきこ」と口ずさむようになっていた。

若い選挙プランナー誕生 意見をどう通すか考える

 元気の良い選挙は有権者を動かす。知事選の投票率が前回から6.27ポイントアップして44.94%となった結果、嘉田は下馬評を覆して見事初当選を果たす。松田は初陣で奇跡を経験した。

 松田は嘉田の2期目の知事選にも参加し、ダブルスコアでの圧勝に貢献した。12年末には嘉田が知事のまま代表に就いた日本未来の党の選挙にも関わった。しかし、14年の滋賀県知事選挙を機に、松田と嘉田は袂(たもと)を分かつことになった。それでも嘉田はこう言うのだ。

「松田馨は政治の世界に『地盤・看板・カバン』のない人が入ってくる回路を作った。これで日本の自治体政治が変わりつつある。実務家として大きな社会貢献をしている。自慢の卒業生です」

 嘉田の選挙に関わったことが評判となり、松田への依頼の多くは選挙の仕事になっていった。

「それなら選挙を専門にやってみようかな」

 そう考え始めた矢先に転機が訪れる。松田のメールマガジンを見ていた三浦博史が「ぜひお会いしたい」とコメントを寄せたのだ。松田は大いに驚いて、すぐに三浦へメールを返信した。

「ぜひ一度お会いしてご挨拶させてください」

 08年5月23日。松田は滋賀県から上京し、麹町の事務所に三浦を訪ねた。三浦は早口だがフランクで優しかった。松田は三浦にたずねた。

「私も名刺に『選挙プランナー』と書かせてもらってもいいでしょうか」

 三浦は「大歓迎です。喜んで」と即答してくれた。三浦は松田との出会いをこう振り返る。

「当時の選挙の世界は選挙ブローカーとか選挙ゴロとか、うさんくさい人が多かった。選挙違反を指摘しても、『今まで何でもなかった。敵陣営もやっているから大丈夫』といった選挙プロが跋扈していた中、きちんとコンプライアンスを守って頑張っている松田さんの姿が目に留まったんです。ぜひ後に続いてほしいと思いました」

(文中敬称略)(文・畠山理仁)

※記事の続きはAERA 2023年11月13日号でご覧いただけます

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