いまのこの正しさも、5年後にはまちがいになるかもしれないし、逆にいままちがっていることが正しいとなるかもしれない。そのような距離をもって考えることが大事です。現在の価値観だけを振りかざし、過去の発言や複雑な文脈をもった行為を一刀両断していく行為は、ポリティカル・コレクトネスの精神に反しています。

 だれかの正しさに便乗し、答えが出たと安心してみんなで叩くというのは、むしろ本来の正しさと対極の態度なのです。

 その点で、小山田さんの騒動はいやな後味を残すものでした。騒動を受けて「訂正」するべきことは、日本社会のいじめへの鈍感さだったり、音楽ジャーナリズムの閉鎖性だったり、いろいろあったはずです。けれどもみな小山田さんを追い出したことで満足し、忘れてしまった。いまでは話題にもなりません。

 この点では、訂正する力は「記憶する力」だとも言えます。訂正するためには、過去をしっかりと記憶していなければいけません。正義を振りかざし、大騒ぎして忘れるというのは、訂正の対極にある行為です。

 ちなみに「訂正」と似た言葉に「修正」(revision)がありますが、「はじめに」でも記したように、本書では採用していません。その理由は、「歴史修正主義」(historical revisionism)という評判の悪い用語があるからです。それはいまでは、「アウシュビッツにはガス室はなかった」「従軍慰安婦はいなかった」といった、おもに保守側による歴史の捏造を意味する言葉として使われています。この文脈での「修正」は、現実から目を逸らし、記憶をなくしていく行為です。

 訂正する力は歴史修正主義とは異なるものです。本書はけっして、過去を都合よく修正するのが大事だと主張する本ではありません。訂正する力は、過去を記憶し、訂正するために謝罪する力です。歴史修正主義は過去を忘却するので、訂正もしなければ謝罪もしません。この違いはしっかりと意識するようにしましょう。

東浩紀/批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役
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2024年この本が読みたい!「本屋大賞」「芥川賞」「直木賞」