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鎌倉の鶴岡八幡宮(Getty Images)
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 自身の学生時代と現在の学生が開く教科書は、ときおり内容が変わっている。日本史で学ぶ鎌倉幕府の成立年もその一つだ。中学と高校で習う年号が違うという事態も起きているという。なぜ鎌倉幕府成立はいくつもあるのか。その理由を歴史作家である河合敦の著書『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して解説する。

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鎌倉幕府の成立年は「イイクニ」から「イイハコ」へ

 伊豆の流人であった源頼朝は、源平の争乱(治承・寿永の乱)を制して平氏、さらに奥州藤原氏を滅ぼし、朝廷の勢力をしのぐ日本初の武家政権を樹立した。これが鎌倉幕府である。

 もともと幕府は、中国において遠征中の将軍の陣営を意味したが、平安時代になって日本では近衛大将(宮中の警護を司る武官の最高職)の居館をさすようになった。武家政権を意味する用語に転じたのは、頼朝以降のことである。

 しかも、「鎌倉幕府」という語句は、同時代どころか、江戸時代になってもほとんど登場しない。歴史用語として一般化するのは、明治時代中期のことなのである。鎌倉時代当時は、鎌倉幕府のことを「関東」などと呼ぶのが一般的だった。

 ところで、鎌倉幕府といえば、その成立年を語呂合わせで「イイクニ(一一九二年)つくろう、鎌倉幕府」と暗記した方も多いはず。しかし近年は、「イイハコ(一一八五年)つくろう鎌倉幕府」と学校で教えているという言説がたびたびマスコミで語られるようになった。

 実際、高校日本史の教科書として最大のシェアを誇る『詳説日本史B』(山川出版社 二〇二二年)の記述を見てみよう。

「1185(文治元)年、平氏の滅亡後、頼朝の支配権の強大化を恐れた(引用者注・後白河)法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍勢を京都に送って法皇にせまり、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や1段当たり5升の兵糧米を徴収する権利、さらに諸国の国衙(現在でいえば県庁のようなもの)の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、西国にもおよび、武家政権としての鎌倉幕府が確立した」

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修学の途中で変わってしまう成立年