頼朝は朝廷(平氏政権)に対する反乱軍ゆえ、支配下に置いた地域の荘園・公領の貢租は京へ送っておらず、勝手に部下を惣追捕使(後の守護)などに任じていた。同年、平氏が制圧した西国からの税の未納が予測されたので、このままの状況では、都の皇族や貴族にとって死活問題になってくるので、納税を命じたのだ。ともあれ、頼朝が宣旨によって東国の支配権を獲得したことを幕府の成立ととらえる説である。

 なお、コラムには載っていないが、一一八四年説も存在する。この年、鎌倉には大江広元を別当とする公文所が開設され、一般政務や財政をになうようになった。同じく三善康信を執事として訴訟や裁判事務を担当する問注所が置かれた。このように侍所に加えて公文所・問注所といった政治機構が整ったことをもって幕府の成立と考える説である。

 一一八五年説についてはすでに述べており、ここでは割愛する。

 一一九〇年説は、頼朝が朝廷から右近衛大将に任命されたことを幕府の成立ととらえる説である。前年、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、三十年ぶりに京都へ入り、後白河法皇と対面する。このおり頼朝は朝廷から権大納言に叙され、さらに右近衛大将に任官した。この職は武官としての最高職であったことから、これをもって幕府の成立と説くわけだが、頼朝はすぐにこの両職を辞している。共に都に在留して朝廷に奉仕しなくてはならない職なので、在職し続けると鎌倉へ戻れなくなってしまうからだった。ちなみにこのとき頼朝は、自分を征夷大将軍に任じてくれるよう強く朝廷に依願したが、後白河法皇が難色を示したので実現しなかったといわれている。だが、これについては近年、新しい史料が発見され、誤りだったことが証明された。

いくつかの段階を踏んで成立した説

 このように諸説がある鎌倉幕府の成立年だが、ある年を成立の画期とするのではなく、段階を踏んで確立していったとする考え方もある。たとえば川合康氏は、成立の三段階を想定し、次のように述べている。

「第一段階は、治承四年(一一八〇)八月の挙兵以後、頼朝が朝廷に敵対したまま、敵方所領没収や惣追捕使の設置を推し進め、東国の反乱軍の軍事体制として、鎌倉幕府権力が形成された段階である。第二段階は、寿永二年(一一八三)十月宣旨によって、東国で形成された幕府権力がそのまま朝廷から追認され、木曽義仲軍や平氏軍との戦争の進展にともなって、惣追捕使・荘郷地頭・御家人制などが西国にまで拡大した段階である。第三段階は、平氏一門の滅亡、義経・行家の没落により、内乱が終息するなかで、戦時に形成された幕府権力を平時に定着させる頼朝の政治が展開した段階である。全国から御家人を総動員し、頼朝自らそれを率いた文治五年(一一八九)の奥州合戦や、建久三年(一一九二)七月の頼朝の征夷大将軍任官と将軍家政所下文への切り替えなどは、鎌倉殿の権威を確立し、御家人との主従関係を再編・明確化しようとするものであったと思われる。

 鎌倉幕府は、このような三段階を経て実質的に形成されたのであり、どこか一つの時点を切り取って論じてみても、幕府の歴史的性格を十分に理解することはできないのである」(『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館 二〇一九年)
 

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