五・七・五のわずか十七音で風景や心情を表す俳句。映画監督でもある奥田瑛二さんは、その短い詩を「必ず映像が頭に流れている。映画のシーンを撮るようなイメージで読んでる」のだそう。そんな奥田さんは、自身とは対照的な夏井いつきさんの読み方に興味を抱いた。二人が正岡子規について語った『よもだ俳人子規の艶』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、紹介する。
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奥田:夏井さんは、一句一句独立させて読むって話でしたが、どんな感じなの?
夏井:奥田さんの映画の一シーン的解釈を聞いてて思ったのは、私の感覚は、一句独立の「写真+α」の感覚に近いなあと。
奥田:写真+α……?
夏井:ストーリーで捉えるんじゃなくて、ほんの短い時間を写真的に真空パックにしたようなイメージかな。でも、その写真はちょっぴり動くから「+α」。多少の空間的広がりや時間的な幅がある「俳句的な写真」。たとえば次の句。
馬追の長き髭ふるラムプ哉
奥田:これは〈馬追〉の触角を〈髭〉と見立てているんですよね? ランプに寄ってきた馬追が長い触角をふっている。それを映し出すランプだなあ、という句。
夏井:そう、〈髭〉は触角の見立てだね。馬追の触角のかすかな揺れと共に、ランプでできたその影の揺れまでが見えてくるよね。もちろん、そこにはランプの火影も揺れていて。ランプのオイルの匂いもしてくる。そんな空間と時間をパッキングした「写真+α」。