武田信玄と上杉謙信が北信濃の領有をめぐり起こった川中島の戦い。天文二十二年(一五五三)から永禄七年(一五六四)にかけて五回にわたり行われたとされ、最大の激戦は第四次川中島合戦だった。通説では、武田信玄と上杉謙信が一騎打ちしたとされるが、歴史学者の呉座勇一氏は「後世の創作」だと指摘する。『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して解説する。
* * *
第四次川中島合戦の勃発
戦闘の経過を詳しく記した最も古い史料『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』と略す)によれば、第四次川中島合戦においては、武田信玄と上杉謙信が一騎打ちを行ったという。上杉政虎は武田本隊を急襲した。信玄の本陣は大混乱に陥り、本陣深くに斬り込んだ政虎は信玄に三度太刀を浴びせたが、信玄は軍配で防いだ。その後、信玄の旗本の攻撃を受けて政虎は退散した。
この逸話は、出典の『軍鑑』が近代歴史学において信憑性の低い史料とみなされたこともあって、創作と考えられてきた。『軍鑑』は江戸時代においては甲州流軍学の聖典として重んじられるに留まらず、庶民層にまで広く普及した。ところが、近代になると評価が一変する。歴史学者の田中義成が一八九一年に「甲陽軍鑑考」という論文を発表し、『軍鑑』は偽書であると断じたのである。