橋下徹氏の登場によって政治文化が変わったと内田先生はおっしゃいましたが、そこで持ち込まれたのは、まさにクリアカットな「勝ち負け」ですよね。勝った集団と負けた集団をはっきりさせる。この集団内では「同一性」が成り立つ一方で、集団全体は当然、分断されます。シュミット的に見れば、これは民主主義の深化ではあるのです。シュミットに言わせれば、民主主義と独裁は両立する。なぜなら独裁とは、集団の意志をたった一人の者が代表している状態であり、集団的意志を成立させているという意味では民主主義の原理そのものだからです。
現代日本の政治がある意味で「民主主義的」になったことには、構造的要因があると思います。つまり、戦後の政治経済社会の構造が全般的に立ち行かなくなってきたなかで、国のかたちそのものが問題になるような政治的論点がいくつもあります。たとえば原発の是非なんてものは典型ですね。原発を続けるのか止めるのか、真っ二つに分かれざるを得ない。つまりは分断せざるを得ない。「少し気に食わないけれども、このぐらいだったらしょうがないか」と思える議題であれば、国対政治のようなネゴが成り立ちますが、そうはいかない問題が山積している。
いま問題になっている、岸田大軍拡・新安保関連3文書のようなものもそれですね。アメリカの言いなりになることで自分たちの権力が保たれるという動機に基づく、あっていいはずがない国策に関しては、何らかの妥協的な交渉、仕方がないと皆が思う落としどころを見出すことはできないでしょう。日本の政治の矛盾がシステミック(全体的)に高まっているので、もはや交渉して6対4で何とかするということが成り立たなくなってきているのではないでしょうか。