日本の民主主義というのは、村落共同体の合議制が基本モデルだったと思うんです。みんな集まって、だらだらと議論する。合意形成までに時間をかける。そのうちに、いろいろな可能性が消えて、最後に「もうこうなったら、これしかないか」というところに落ち着いて、満場一致で話を決める。勝ったも負けたもない。「これしかない」という解は別に「たいへん好ましい」という意味ではありません。満場一致で決まったんだけれども、みんな何となく不満顔をしている。自分の意見が採用されて大喜びしている人なんか誰もいない。「不満足の程度が全員同じくらい」というのが、日本の伝統的な村落共同体的なデシジョンメイキング(意思決定)の特徴だった。

 アメリカは複数のシナリオを並べて「使えないシナリオ」を順次消していって最後に「こうなったら、もうこのシナリオしかないか」というところまで行き着くのを待っているという話をしました。先送りしているうちに「思いがけない何か」が起こって、状況が一変するということはある。

白井:いまのお話は、かつてカール・シュミットが指摘した民主主義と自由主義の対立矛盾という論点と関わる気がします。シュミットいわく、リベラル・デモクラシーというのは同じような原理の結合物だと何となく思われているけれど、違うんだ、実は正反対のものの結合なのだ、と。なぜなら、民主主義は集団的に一つの意志を成立せしめる原理であって、つまり「同一性」の原理だ、と。これに対して、自由主義は利害や意見・価値観の対立を解消せずに、お互いに妥協しようという主義であって、その原理は「差異」だと。つまり、日本に限らず、世界中で古代から見られた、全会一致式だけれど全員が大満足にはならない衆議というのは、現代的に言えば、自由主義的なものなんだと思います。

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