だがこの間、起用やコーチングを巡って上層部との諍(いさかい)いが続く。箕島高校時代、監督の尾藤公から「自分で考える野球」を求められてきたため、有無を言わさず抑えつける指導が肌に合わなかった。かつての野球界は上下関係が厳しく、監督、コーチにたてつくことはクビを意味していた。


 94年、投手交代に納得できなかった吉井は、リリーフに渡すボールをボレーキック。翌年、ヤクルトにトレードされた。


 当時、ヤクルトの監督は野村克也。野村との出会いは大きかった、と吉井はいう。


「打たれるとすぐにボヤかれ、当初は“なんや、このおっさん”と思っていたけど、失敗したときと同じような場面でまた使ってくれた。選手は監督に信頼されてると思うとやる気が湧き出る」


 野村はマウンドに投手を送り出すとき「最後はわしがいるんやから、好きにせえ」が口癖だった。思い通りのピッチングができた吉井は、ヤクルト在籍3年間で、3年連続二けた勝利を挙げ、2度の日本一を味わった。


■自分が嫌だったことは選手には絶対やらない


 97年オフにFA権を取得すると、国内外8球団からオファーが届いた。巨人には4年で13億円を提示された。吉井が選んだのは、年俸僅か20万ドルのニューヨーク・メッツだった。


「金額は関係なかった。近鉄時代の後輩だった野茂英雄からメジャーの話はよく聞いていたし、自分もいつかチャンスがあればと狙っていた」


 春のキャンプからカルチャーショックを受けた。コーチにいきなりこう告げられた。


「君のことは君が一番知っている。だから、僕に君のピッチングを教えてくれ。その上でどうしていくのがベストなのか、話し合いながら決めよう」


 日本とは真逆のコーチングだった。日本のコーチは自分の経験から指導しようとする。選手のフォームなども自分の感覚で修正しようとする。そのことに違和感を持った吉井は、だからこそコーチ陣と衝突してきた。一方メッツのコーチは、どんなピッチングをするのか、どんなピッチングをやりたいのか、最初に聞いてくれた。


 メッツ時代、ニューヨークで度々食事を共にしたのが作家の本城雅人(58)だ。当時、新聞社の留学生だった本城は吉井と馬が合った。二人は日系書店で待ち合わせしたが、吉井はそのたびに数学や微分積分の本、生体学の参考書などを購入していたという。本城は吉井の姿勢に、メジャーリーグの仕組みから選手の調整法まで、何でも吸収してやろうとする貪欲さが見えたと語る。

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