「多賀野」を4年半で卒業し、08年、埼玉県鶴ケ島市に「中華そば専門 頓知房」をオープンした。「多賀野」の最初の弟子と話題になり、東京からもたくさんのお客さんが集まったが、その味は不完全燃焼の連続だった。
「煮干しの無化調ラーメンを提供していましたが、うまくいったりいかなかったりの繰り返しで、好不調の波のある営業になってしまっていました。有名なラーメン雑誌のタイトルにも引っ掛からず、スタートダッシュが厳しかったのを覚えています。『「多賀野」と似ているのはどんぶりだけ』とも言われましたね」(丸岡さん)
それでも日々来てくれる地元の常連客は温かかった。少しずつ味をブラッシュアップして、徐々に口コミも増え、雑誌やインターネットでも取り上げられるようになった。
17年9月に日高市へと移転し、食材倉庫や製麺機も充実させ、よりラーメンの作りやすい環境を整えた。鶴ケ島時代の常連客に加え、新規のお客さんも増え、人が人を呼び行列店に。『ラーメンWalker』でも評価され、不動の人気を誇っている。高麗川沿いの自然豊かなすてきな場所で食べる一杯は格別なものがある。
「喜九家」の大野さんは丸岡さんを「命の恩人」と感謝している。
「お店が失敗している間に、麺をお願いしている製麺所に見放され、丸岡さんに助けを求めました。お店に行っては、閉店後、朝の4~5時まで相談に乗ってもらいました。私はこのお店の接客に憧れていて、自分のお店でもラーメン作り以上にうるさく指導するようにしましたね。一生頭の上がらない恩人です」(大野さん)
丸岡さんも大野さんの技術の多彩さに驚かされている。
「営業後、よく朝方まで語り合っていましたね。確かに業者は紹介しましたが、僕は何もやってないです。あれよあれよという間に5店舗を展開する大社長になってしまいました。研究熱心で、おそらく埼玉で一番ラーメンを食べている人だと思います。味の再現も上手ですし、たくさんのラーメンを食べ歩いているからこそ、誰も作っていないラーメンを作り出す天才でもあります」(丸岡さん)
弟子を育てながら常に新しい一杯にチャレンジしている大野さんと、ゆったりとした時間の中で常に自分の一杯を見つめ続ける丸岡さん。お互いの存在が刺激となり、今日もおいしい一杯が生まれている。(ラーメンライター・井手隊長)