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1975年にジャズバンド「外山喜雄とデキシー・セインツ」を結成し、ライブコンサートなどで活躍してきた外山喜雄・恵子夫妻。
巨匠ルイ・アームストロング(愛称サッチモ)に憧れた2人は68年から73年までの約5年間、ニューオーリンズでジャズ修行に励んだ。音楽だけでなく、写真でも優れた作品を残した。その数は1万カット以上にもなる。
夫妻が目にしたのはまさに“ジャズ天国”だった。街なかにあふれるジャズパレード。伝統豊かなブラスバンドが行進し、強烈なリズムにのって腰を振る人々に圧倒された。
裏通りの住宅街にもジャズがあった。誕生日、洗礼式、お別れ会など、機会があれば“裏庭パーティー”が開かれ、トランペットやドラム、シンバルが鳴り響いた。
「パーティーにはもう誰でも入れちゃう。テーブルの上にはバーボン、コーク、ニューオーリンズ料理が並んだ。そしてジャズだった」と、喜雄さんは振り返る。
なかでも感激したのは「ジャズフューネラル(ジャズ葬式)」だった。
「お墓までの行進ではブラスバンドがターラーララ、ララーラって、悲しい賛美歌を演奏して行くんです。でも帰りは、これでもう世の中の苦しみは終わったんだ、天に召されることは悲しいことじゃなくて祝福することなんだって。大太鼓がダーンダーン。ララッタタ、ララッタタ。みんな踊りながらお葬式から帰ってくる」(喜雄さん)
■至近距離でバシャバシャ
ニューオーリンズにはサッチモが少年時代を過ごしたころと変わらない独特の風習や社会がそっくりそのまま残っていた。
「それをジャズ武者修行の合間に夢中で撮りまくったんです」と、喜雄さんが言うと、すかさず恵子さんが撮影に使ったカメラ「コダック レチナIIIc」を見せてくれた。
「たまたま父親が写真が好きで、もう使わなくなったこのカメラをもらったんです。古いからファインダーをのぞいても暗くて、何を撮っているのか、よく分からない(笑)。でも、レンズがすごくよくてね」と、喜雄さんは表情を崩す。
撮影を始めたきっかけは、ジャズ専門誌「スイングジャーナル」に記事を書いたことだった。
「ニューオーリンズで暮らし始めて1年ほどたったころ、有名なジャズミュージシャンが亡くなったんです。それで追悼記事を書いて『スイングジャーナル』に送ったら、『写真はないか?』と言われた。それで撮り始めた」(喜雄さん)
多くの音楽家を撮影したのはジャズの殿堂「プリザベーションホール」だった。
「カメラにフラッシュをつけてバシャッと写した。うまく撮れたので、こりゃいいや、と」(喜雄さん)
フラッシュは使い捨ての小さなものだったので光が届く距離はたかが知れている。撮影は必然的に至近距離からとなった。