「2人になって度胸がついちゃった。というか、彼女に背中を押されたんです」(喜雄さん)
アランの誘いから3年後、夫妻はトランペットとバンジョーを手に移民船「ぶらじる丸」で米国へ旅立った。67年の暮れだった。
ニューオリンズに到着すると、アランは演奏ツアーで不在だった。手配されていた部屋は繁華街「フレンチクオーター」にあるアパートの2階だった。
「この部屋がすごかった。10年は人が住んでいなかったような感じで、窓は破れているし、ベッドにはかびが生えていた。日が暮れても電気はつかない。それで、妻は泣き出してしまった」(喜雄さん)
そのとき、破れた窓を震わせてジャズのサウンドが部屋に響いた。
「そこはプリザベーションホールの真裏だったんです。ぼくらの憧れのホール。アパートの部屋にいるだけで今日は誰が演奏しているか、わかった」(喜雄さん)
ホールのマネージャーは外山さんに鍵を渡してくれた。「昼間はそこで自由に練習していいよ」ということだった。
■サッチモが亡くなった日
プリザベーションホールは外山夫妻にとって “ジャズの学校”となった。
「当時、ジャズをつくったパイオニアたちがまだ現役だったんです。毎晩、彼らの演奏を聴いて、見た。それが私たちの勉強だった。ときどき『やりたいわ』って言うと、『やっていいよ』と、最後の2~3セット、演奏させてもらえた。親切というか、なんて、ありがたい。それもすごく勉強になりました」(恵子さん)
ニューオーリンズに憧れてやってきたのは外山夫妻だけではなかった。
「ぼくらみたいなのがヨーロッパからも来ていたんですよ。彼らと組んで場末のダンスホールで演奏した。そしたらね、なんと、週55ドルにもなっちゃった。1ドル360円の時代だから、円に換算すると、部長の給料くらい。もうびっくり」(喜雄さん)
恵子さんは「お金に困らないどころか、お金がたまっちゃったんです。私、ためるの上手だから」と笑った。
71年7月6日。ルイ・アームストロングがニューヨークで亡くなった。
ニューオーリンズの黒人街では彼をジャズ葬式で天国に送った。膨れ上がった群集のなかに2人もいた。そのとき写した写真には「サッチモの精神は永遠に」と書かれた大きなプラカードの近くにカメラを下げた恵子さんの姿が見える。
「この写真をほかの人に見せると『怖くなかったんですか?』と聞かれるんですけれど――ぜんぜん。あの当時、私たちはニューオーリンズの人になりきっていたみたいです」(恵子さん)
ジャズの故郷で暮らす感激が伝わってくる写真はまさに活写というにふさわしい。
(アサヒカメラ・米倉昭仁)
【MEMO】外山喜雄・恵子写真展「ニューオリンズ行進曲-ルイ・アームストロングを生んだ街-」
冬青社ギャラリー 8月4日~8月27日