「私はもう、うれしくて。演奏している真ん前でバシャバシャ。ははは。フラッシュがなければ暗いプリザベーションホールで黒人の音楽家は撮れませんよ。もう、至近距離もいいところ。こんなになって」と、恵子さんは筆者の目の前に身を乗り出し、撮影の様子を再現して見せてくれる。
「でも、ふつう、そんなことをしたら大変。スタッフからつまみ出されちゃう。でも、私たちは怒られなかったんです。毎日行って、好き勝手に動き回っていた」(恵子さん)
「ぼくらはね、運がよかったんです。それだけ彼らと仲がよかった」と、喜雄さんも言う。
■写真に気持ちが出た
それもそのはず、外山夫妻は昼間、このホールで練習し、夜は彼らといっしょにジャムセッションをしていたのだ。
「うわっ、すごい、すごいって、興奮でシャッターを切っていたから、その気持ちが写真に出ちゃって」と、喜雄さんは言う。ストレートなジャズ愛にあふれた写真は「スイングジャーナル」にも気に入られた。
2人は大阪万博のころに一時帰国した際、本格的に写真を習った。教えたのは文藝春秋社にいた早稲田大学の同級生、飯窪敏彦だった。後に写真部長となる飯窪はジャズが好きでコルネット奏者でもあった。
「ニコンFをひとそろい買って、フィルム現像も教わった。引き伸ばし機も手に入れた。暗室がないから、暗くなってからベッドルームでプリントした。部屋中に酢酸のにおいが立ち込めていた(笑)。バスルームには現像したフィルムがばーっとぶら下がり、バスタブには水洗中のプリントが浮かんでいた」(喜雄さん)
喜雄さんは「こういうタッチが好きだった」と言い、グラフ誌「LIFE」に掲載されていたドキュメンタリー写真を見せてくれる。
「あちらは暑いでしょう。現像液の温度管理ができないから、あっという間にフィルムが黒く仕上がっちゃったりした。プリントするときにも、うまく覆い焼きをしないと黒人の顔が真っ黒になっちゃう」(喜雄さん)
現像したフィルムを保管するケースは恵子さんが自作した。
「白い紙を切って、折って、作った。それがいまもそのまま残っています。あれからもう50年ですよ」(恵子さん)
■案内された荒れ果てた部屋
最初、2人は早稲田大学のニューオリンズジャズクラブで知り合った。
「当時、ニューオーリンズの伝説的なジャズマンが次々と来日していたんです。特にルイ・アームストロングに憧れた。楽屋に忍び込んでドアをノックしたら『OK』と返事があった。それで彼のトランペットを吹かせてもらったこともあります。とにかく夢中でした」(喜雄さん)
ジョージ・ルイス楽団が来日した際、親しくなったチューバ奏者のアラン・ジャッフェから「ぼくを訪ねてこい」と誘われた。アランはプリザベーションホールのマネージャーをしていた。