■「池中玄太80キロ」が刺さった
プロボクシングはスポーツのなかでもかなり特殊な世界だという。
「他の競技だと、かなり前から大会の日程が決まっているじゃないですか。ところが、プロボクシングの場合、まったく決まっていないんです。予定されていた試合が平気でなくなったりもする。本当に興行の世界。それでも選手は『今回はうまくいかなかったけれど、すぐ試合を用意するから』とか言われて、調整を維持する。選手からすれば、いつまで続けりゃいいんだ、という感じですよ」
平等に試合のチャンスが巡ってきて、平等な立場で戦えるわけでもない。
「ジムの規模によっても試合のマッチメーク力が異なるし、モスクワでの試合のように、アウェー戦では選手の置かれる環境がまったく違う。本当にものすごい世界です」
それでも選手は与えられた環境のなかで調整し、試合に挑む。
「ボクサーって、それぞれの立場や状況を背負い、いろいろな思いを抱いてリングに向かっていくんです。それをぼくは撮りたい。撮影していてとりこになる部分でもあります。戦って、殴った、痛かったなんて、どうでもいいというか」
1971年、吉岡さんは東京・新富町で生まれた。父親は「大阪しぐれ」「天城越え」などのヒット曲で知られる作詞家・吉岡治である。
写真に目覚めたのは小学生のときだった。
「ぼくはテレビドラマ『池中玄太80キロ』に当てられたんです。池中を演じた西田敏行さんに憧れた」
通信社に勤める池中カメラマンは報道写真を撮るかたわら、野鳥、特にタンチョウヅルの撮影に打ち込んだ。
「それをまねして鳥を撮ったりしたんですけれど、やっぱり多かったのはスナップ写真でした。遠足に行くと、カメラマンが同行するじゃないですか。でも、その人に向ける顔とは違う顔をみんながぼくに向けてくれるのが楽しくて、写真を撮りまくった。たぶん、それが原点ですね」
■劇団員からCM制作会社へ
吉岡さんは高校生のとき、「カメラマンになりたい」と、父親に打ち明けた。
「ところが、それだけは駄目だ、と言われた。食えないから、と。広告だったらいいって言われたんですけれど、広告カメラマンになるのは嫌だった。でも、その後、役者になって、これで食えるのか、みたいな話なんですけれど……」
高校卒業後、吉岡さんは蜷川幸雄の劇団に入った。本当は演出を担当したかったが、「その年は演出の募集がなくて、役者として入った」。
吉岡さんは役を演じるだけでなく、仲間の顔をビデオカメラで撮影し、それを歴史映像と組み合わせて作品をつくることに熱中した。
「それを蜷川さんに見せたら、面白がってくれて、『(吉岡さんの)芝居は見たくないけど、映像はもう1回見てえな』って。結局、蜷川さんのところには3年くらいいたんですが、映像方面に行きたくなって、CMの制作会社に入りました」