※写真はイメージです(gettyimages)
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 徳川家康は、関白秀吉に「私は殿下のように名物の茶器や名刀は持たないが、命を賭して仕えてくれる五百ほどの家臣が宝」と、控えめに誇ったという。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』では、徳川家を支えた忠臣、猛将、智将などを、歴史学者の小和田泰経氏が採点。各武将の生き様と能力を解説している。今回は、家康の牙、爪として、時に盾として合戦で力を発揮した「猛将」をピックアップ。1位となった本多忠勝は先日報じたが、今回は2位と3位を紹介。歴史学者に選ばれたのは――。

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2位 大須賀康高 / 新参にもかかわらず武功で松平姓を獲得

 すべての項目で高評価を得た大須賀康高が猛将の第2位に選出された。

 当初、女婿の榊原康政とともに酒井忠尚に仕えていたが、忠尚が家康から2度目の離反を決めると、康政ともども家康に仕えることにした。

 旗本先手役として対武田戦の最前線にいることが多く、天正二年(1574)には高天神城攻めでの籠城開始から2カ月後、援軍の望みがないことからやむなく降伏。武田勝頼の恩情により、家康のもとへ帰参した。その後、高天神城の抑えとして横須賀城を築き始めた。

 高天神城を死守したい武田勝頼は同城周辺の徳川軍を一掃しようとたびたび攻勢を仕掛けるが、康高やその与力となった横須賀七人衆に阻まれ、うまくいかず。逆に徳川側は抑えの城の工事が着々と進み、ついに天正八年(1580)七月には、高天神城を完全に孤立させることに成功した。翌年三月二十一日の夜、飢餓に苦しむ守備兵が一か八かの突撃に勝負をかけるが、康高はこれを迎撃して殲滅。高天神城もその日のうちに落城させた。

 その働きを認められた康高は、家康から松平姓の使用を許される。

 その後も横須賀城の守備につくかたわら、武田の遺領を巡る天正壬午の乱に際しては先鋒隊として派遣され、小牧・長久手の戦いでは豊臣秀次隊壊滅の武功を挙げた。

 上田城攻めにも、井伊直政ともども援軍として遣わされたが、病には勝てず、天正十七年(1589)に急死する。

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偽情報まで巧みに使った3位の猛将とは?