この試合は、羽生にとって一つのターニングポイントとなった。1試合のうちに言葉の「失敗」と「成功」の両方を経験したのだ。

 シーズン初めには「被災者としての立場ではなく、アスリートとして勝つ」と宣言していた羽生だが、試合のたびに被災者としてのコメントを求められ、こんな発言を繰り返していた。

「仙台出身の僕が演技することで、被災地の皆さんに元気になってほしい」

 無意識のうちに「勝ちたい」という思いは抑制され、勝つことより「被災地を元気にする」ことが前に出るようになっていた。

 迎えた世界選手権。ショートプログラムでは、ルッツが1回転になるミスがあって7位と出遅れた。それでも、悔しいという気持ちにはならなかった。夜になって羽生は、口にするべき言葉を取り違えていたことに気づく。

「被災地のために滑ろうと思っていたけれど、それは違う。僕は元気づけてあげる立場ではなくて、元気をもらう立場なんだ。応援を受け止めて、僕が精いっぱい演技をすることが、恩返しなんだ」

 被災者の一人として演技するのではなく、アスリートとして勝ちにいく。その初心を思い出すと、フリースケーティング本番、別人のような闘志あふれる羽生が現れた。

 映画「ロミオ+ジュリエット」の曲にのせたドラマチックなプログラムを雄たけびを上げて演じ切り、大逆転で銅メダルに手が届いた。

 言葉の発し方一つで、自分が弱気にも強気にもなることを経験した一戦だった。

 17歳でカナダ・トロントに渡ると、名匠ブライアン・オーサーのもとでソチ五輪を目指す。

 すでにオーサーの指導を仰いでいたスペインのハビエル・フェルナンデス(26)と競い合う練習環境が奏功し、12年、スケートアメリカのショートで、当時の世界最高得点となる95.07をマークした。

 だがこの後、再び言葉の呪縛にとらわれることになる。

 当時の羽生は、まさか自分が世界記録を更新することになるとは思っていなかった。ショート後の記者会見では、うれしさを自制するために、あえてこう口にした。

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