この本はぜんたいが15章に分かれている。荷風の名前がふたつの章に登場している。その最初のほう、「荷風の散歩道」を読んでみると、著者の力量が鮮明になると同時に、時間と地形の重層した関係の一端が、目に見える。散歩はこうでなくてはいけない、と僕は真剣に思う。

 余丁町に暮らしていた荷風は四谷で用事をすませたあと、「四谷通りの南側の谷間をよく散歩した。現在の須賀町、若葉二丁目、三丁目、南元町に当たる小さな谷である」と著者は書く。急坂を下りて谷を貫く一本道を南へ20分も歩けば行き止まりになる。向こうは赤坂御用地で、手前には火災の延焼を防ぐための、初夏なら草が一面に繁った空き地だ。ここのことを荷風は文章に書いている。読むといい。

 ここで荷風は水の流れる音を聞く。そのことを文章に書く。それを何年もあと、著者が読む。そして、そのことを、記憶する。おなじ場所を訪れたとき、荷風が書いた水の音について、著者は思い出す。あの水音はなにだったのか、と著者は思う。つきとめよう、という意志に偶然が重なり、東京の地形とそこで経過した時間、そしてそのなかで生じた変化について、著者は思いがけず知ることになる。ここは戦慄を覚えるほどに興味深い。これも読むことを、僕は勧める。

「東京の地表を一枚ずつはがしていけば、最後に行きつくのは地形である」と著者は書く。豊富な体験と深い知識、鋭い直感、それに導かれる自分の肯定など、いまある著者のすべてが、この文にあらわれている。「その複雑な起伏の上に屋敷や道路や街区が重ねられ、現在の姿になった。時間と空間の層を縦割りにしてそれを実感していくと、街歩きはますます深みを増しておもしろくなる」。2012年に刊行された『日和下駄とスニーカー』の、じつにうれしい改訂版だ。

週刊朝日  2019年12月20日号