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豚の丸焼き、DJ派遣…思わずうなる大人のバーベキュー事情
豚の丸焼き、DJ派遣…思わずうなる大人のバーベキュー事情
子豚の丸焼きができるバーベキューはいかが!?  夏レジャーといえば、家族や友人と集まってバーベキュー。これはこれで楽しいものだが、大人だからこそ、少し贅沢に楽しみたい。実は今、エンタメ性やオシャレ感重視、女子向けなど、さまざまなタイプのバーベキューが登場しているのだ。参加者をうならせる、大人のスペシャルバーベキューをご紹介しよう。  まず紹介するのは、いつものバーベキューにエンタメ要素をプラスする、特別な食材。“子豚の丸焼き”だ。肉のオンラインショップ「ザ・ミートガイ」(www.themeatguy.jp/app/ja/)では、子豚丸ごと1匹、約3万円で購入することができる。子豚は内臓などを取りのぞいた「中抜き」、体毛処理済みで届く。あとは現場で焼くだけでOK。ローストや塩釜、グリル焼きはもちろん、海外のお祭りのように、スキューアに通して、炭火の上でぐるぐると回転させながら焼けば、いつものバーベキューが一大イベントへと様変わり。中まで火が通るまで目が離せない点は大変だが、仲間たちと焼けばそれも楽しみのひとつ。子豚一匹の大迫力に、参加者のテンションも上がること間違いなしだ。(※価格は変動する可能性があるので購入時にはサイトで確認を)  エグゼクティブなバーベキューを堪能したいなら、東京・台場にあるホテル日航東京の「ablaze(アブレイズ)」がオススメだ。昼間は海辺の心地よい風、夜はレインボーブリッジや東京タワーの夜景が一望できる席で、ロース肉や国産牛の牛タンやオマール海老など、料理長が厳選した高級食材の炭火焼きとともに、種類豊富なワインを楽しむことができる。また、1日4テーブル限定の『プレミアムBBQコース』では、眺めの良い特等席で、A4ランクの和牛や骨付き鶏などの特選素材を味わえる。接待やデートで利用してもウケがよさそうだ。  女子ウケを狙うなら、ドラマ『失恋ショコラティエ』のロケ地にもなった、東京・豊洲にある「CAFE;HAUS」。1名4980円から、おしゃれにガーデンバーベキューが楽しめる。カジュアル、飲み放題、デラックス、エグゼクティブの4つのプランから選べるが、注目すべきはエグゼクティブプランだ。伊勢海老や熟成肉などの特別食材が味わえるだけでなく、このプランでは「BBQインストラクター」なるものが常駐している。おいしいバーベキューのコツをレクチャーしてくれるので、失敗して男の株を下げる、なんて心配はご無用だ。マシュマロもオーダーできるので、焼きマシュマロを使った流行のスイーツ「スモア」を作れば、女子からの評価も急上昇することだろう。  屋上で夜景を眺めながら音楽を楽しむ――。そんな「クラブ感覚」でバーベキューを満喫できるのが、今年の4月に代官山にオープンした、「REAL BBQ PARK daikanyama」。屋上の空間を1組(8~15名)限定で貸し切りが可能。周りに気がねすることなく、親しい仲間とワイワイ楽しむことができる。予算は1名当たり4000円~4500円。バーベキューメニューが豊富なのはもちろんだが、こちらの特徴は何と言っても音楽設備が充実していること。BRIGTON STUDIO by jazzy sportとの提携で、DJ機材やプロジェクターもレンタルできる。さらにはDJの派遣にも対応してくれるなど、都会ならではのオシャレなバーベキューが楽しめるのだ。  子豚一匹以外は、手ぶらOKなので、仕事帰りでも立ち寄ることが可能だ。これまでとはひと味違う、スマートかつエンターテイメント性に富んだ大人のバーベキューで、夏を満喫してみてはどうだろう。 (ライター・渡辺 恵理)
dot. 2015/06/23 11:30
祝・夫婦で短編賞作家に! 吉田戦車さん×伊藤理佐さん爆笑対談
祝・夫婦で短編賞作家に! 吉田戦車さん×伊藤理佐さん爆笑対談
贈呈式後に行われた記念イベントで対談をする伊藤理佐さんと吉田戦車さん 対談中の吉田戦車さん。「担当編集者から受賞の電話をもらったときはてっきり連載マンガの描き直しかと思った」と苦笑い 対談中の伊藤理佐さん。「うちは普段、夜8時以降はめったに電話がかかってこないから岩手のお母さんからだと。そのぐらい、短編賞は"突然"やってくるんです!」  第19回度手塚治虫文化賞(朝日新聞社主催)の受賞記念として、吉田戦車さんと伊藤理佐さんの公開対談が行われた。対談相手の伊藤さんは吉田さんの妻で、自身も第10回の同賞短編賞を受賞。貴重な対談をほぼ全文の形で紹介する。 *  *  * ■手塚治虫文化賞短編賞は突然に 吉田戦車(以下吉):これで我が家にアトムが2体あるということになったので、片方をウランちゃんに改造するというのはどうかな。 伊藤理佐(以下伊):それが、「俺、今最初に言いたいことあるから言う」って打ち合わせで言ってたこと? 吉:そう。(ブロンズ像制作者の)横山宏さんは知り合いだから、作ってもらえますよ。あとさっきから思っていたのが、この壇上と幼稚園のステージはちょうど同じくらいの大きさですね。 伊:うちの5歳児が通っている幼稚園ね。 吉:うちの子は、今日は来てなくて、ベビーシッターさんが見てくれてます。まあ、連れてきても良かったんですけども、見せなくてもいいかな。 伊:言いたいことはそれだけかい(笑)。 吉:手塚治虫文化賞の大賞は、ノミネートされてから連絡が来て選考されるということなんですけれども、短編賞はいきなり「受かったんですけど受けますか?」って電話が来て、非常にびっくりするんですよね。 伊:受賞した日の夜の話ね。 吉:スピリッツの担当編集から電話があったんで、描き直しかな?って。こっちは「ノミネートしていただくんなら喜んで」と言ったら「本決まりだそうです」って。 伊:夜8時くらいに連絡が来て、そのくらいの時間ってうちはもう電話がかかってこないから、この口調は岩手のお母さんから電話だなと思って、子どもと遊びながら聞いてたの。「いただきます、いただきます」と言うから、絶対、母に頼んだ乾麺が来ると思ったの。だっていつも頼んでるじゃん。 吉:岩手でしか買えないやつね。 伊:と思っていたら、吉田さんがふすまをパッと開けてさ。「手塚賞、短編賞、いただきました」って。ころげたもんね、びっくりして。そのくらい短編賞はいきなりやってくるんですよね。 吉:伊藤さんは、すでにその世界では先輩なわけですけれども。 伊:私のときも、双葉社の担当編集者さんからさらっと電話がかかってきて、「今電話があってー、手塚賞短編賞取ったって連絡なんだけど、ほんとかな?」って言うから、「騙されてるんじゃないですか」って聞いたら、「俺だって騙されてるかもしれないと思っているんだよ!」って逆ギレされて(笑) 吉:ヤマザキマリさんもそう言ってたね。確か『コミックビーム』の名物編集長から電話がきて、「あ、なんか受かったらしいんだけど」ってね。今回、伊藤さんは結構喜んでくれたんですけれども、コノヤロー、余裕かましてやがんなって。 伊:だってすごい嬉しいんだけれど、9年前に私も取ったから、「すごいよー、手塚賞取ったってすごいよー」と言うと、自分も一緒に上がっちゃうじゃない。 吉:自慢かいって(笑)それで、しばらくは箝口(かんこう)令が。ツイッターとかに書いちゃだめだよと言われてたんで、とりあえず近所のママ友とか子どもたち呼んで、宴会して。無理やり祝わせたということがありましたね。 ■「伊藤理佐さんが寄付したお金で買った手塚治虫の本」 吉:私は本当に、漫画好きのオタクと言っていいような少年だったので、手塚作品の代表的なものは全部読んでるつもりなんですけど。 伊:『火の鳥』とか『ジャングル大帝』のレオごっこも友達とやったし、『ブラックジャック』は、高校生のときにクラスで大ブームが起きて。医者の娘が単行本を全部買って、クラスのみんなで授業中に読んでいたという思い出が強く残っていますね。短編賞をもらったときに、ちょっといい人になりたいという気分が出て、うちの故郷の図書館に賞金の一部を寄付したんですね。そのお金で子どもたちに手塚先生の本を買ってくださいとお願いしたら、「伊藤理佐さんが寄付したお金で買った手塚治虫の本」って写真が送られてきて。恐れ多いことに、手塚さんよりも先に自分の名前が来ているという……。 吉:その図書館に行ってみたいよね。 伊:まだあります。その棚が。 吉:もともと伊藤さんとは、もう20数年来の顔見知りで飲み友達だったんですけれども、結婚することになって、この人の実家にいくわけじゃないですか。この面白さはなかったですよ。『ハチの子リサちゃん』とか読んでるからその、臨場感が。 伊:はちのこ出したら、さらっと食べたじゃん。こっちは、つまんねえなあって。 吉:ご両親もがっかりしてたよね。なんだこの男、みたいな。私はイナゴを取って売るバイトをするような少年時代だったんで。さすがにはちのこは初めて食べたけど、まあ嫌いじゃないですね。 伊:ワインに合うんだけどね。 吉:ここはぶどう酒と言うべきですね。はちのこを佃煮にして、つまみにしてお酒飲むとかはいいんですけど、炊き込みご飯というのがあって。そのビジュアルは、やっぱりなんか食べ物として間違えているんじゃないかっていう。 伊:私は平気で食べているんだけど、流しのシンクにはちのこ落ちたときに、「キャー」って悲鳴あげたもんね。 吉:味はすごくコクがあっておいしいんですけれども、半分成虫みたいなものが混じっているんですよ。ジバチって言って、日本のスズメバチですけれども、その黒々とした明らかに「虫」といったのがたくさん入っているっていうのは、すごいよね。ところで理佐さんがウォーキングを始めて、この日のために頑張ってるって描きましたが、どうですか? 伊:痩せたか、太ったかということ? 変わらないですね。よく二人目?とか聞かれる。産後太りは治らないというか、解消されなかった。 吉:でも、ちゃんとウォーキングして絞るというのが習慣づくのは、本当にいいことだと思うんでぜひ続けて。見返してやってください、デブとか言ってるやつら。 ■吉田&伊藤家の食卓 伊:朝、食べたカレーが腐ってたんだよね。 吉:僕はさっき昼食べたんですけど、あれ作ったの何日前? 伊:3日前かなあ。 吉:ちゃんと冷蔵庫には入れてたんですけど、酸っぱくて。ただ僕は意外と腐敗臭に敏感な方なんですけど、嫌な匂いがそんなにしなかったんですよね。 伊:だいたい腐っているかいないかのときって、吉田さんに味見してもらうじゃない。でも朝起きてこなかったから、娘に食べさせちゃったの。子どもに腐ったカレー食わしただなんてダメだから、腐ってないと思うようにしたんだけど食べたら酸っぱい。 吉:結局、僕も判断下せなくて全部食べちゃったんですけど、実を言うとすごく不安で。ステージ上でお腹痛くなったらどうしようって……。 伊:先生、うんこオチは良くないと思う……。 吉:ほらうちって、俺が糠漬け作ってるじゃない。だからカレーもいい乳酸菌が発酵したんじゃないかな。 伊:そんなのってあるのかな? 吉:食えなくはなかったし。あと俺、カレー粉を足したんだよね。それでもう分からなくなっちゃってたんだよね。 伊:というような毎日なんだよね、私たち。 吉:僕の部屋の本棚にレトルトカレーの箱入りのやつが置いていまして、それをよくこの人が勝手に持っていって昼飯に食べたりして。 伊:本やDVDとかと一緒に並んでて、なんだっけ、私がよくレトルトカレーと間違えるやつ。 吉:「荒野の用心棒」。パッケージがちょっとレトルトカレーっぽいんだよね。 伊:そうそう、パッケージが黄色いからカレーに見えるの。厚みもね。 吉:あ、でも俺ね、食われたくないやつは奥に隠してるんだよね。 伊:隠してある場所は知ってる。押入れの、あっちのね。 吉:分かってますね……、カップラーメンをそこから盗んで食べてるよね。理佐さんは友だちと飲んで午前様のときがあるんですけど、そのときは盗んで何か食ってますね。だから歩いても、そんなんじゃダメだよって感じだよね。 伊:私、食べたら補充しといてって言ってるよね。 吉:だったら、カップヌードルライトでいいかって。なんで俺が考えなくちゃいけないんだ。 伊:私が太ってるからねえ。 ■一軒家の1階と2階に分かれて仕事 吉:2階建ての古い和風の家に、仕事部屋兼住居で住んでるんですけど。 伊:一軒家の中で漫画家2人なんて、よく仕事できるねと言われるけどね。 吉:僕は仕事部屋を借りたくて仕方ないんだけど、色々もったいないし。1階の玄関入ってすぐの6畳の和室ですよね。障子と畳があってっていう、高校生の勉強部屋みたいなところで僕が仕事していて。 伊:2階の洋室、10畳のほうが私。 吉:普段は上と下にいて仕事しているんだけど、余計なストレスを感じないように、できるだけ顔は出さないようにして。どっちが台所でお昼ご飯食べていたら、見て見ぬふりをする。 伊:お茶入れてたら、さっと戻るとかね。 吉:「うざいなコイツ」と思わないように、工夫はしてますよね。お昼ご飯は、僕は外出ちゃいますね。でも朝ごはんと晩御飯は、子ども小さいからだいたい一緒ですよね。だから僕は何度も色んな媒体に描いているんだけれども、自分だけの台所が欲しくてしょうがなくて。ぼくはチャチャッと料理するのが大好きなんですけど、台所は「奥さんのもの」になっちゃうじゃないですか。完全にこの人に奪われて、制圧されちゃって。ほんと、俺の台所と冷蔵庫欲しい。 伊:6畳で煮炊きしてるじゃん。登山用のやつで麺とか茹でてる。 吉:カセットコンロでね。換気扇がないから、必死でやるんですけど。エア登山って言って馬鹿にされるけど、登山グッズが色々あるんだよね。チタンの何とか、とか。 伊:2階のベランダで寝るとか言って、いきなり寝袋で寝てたりする。なんで地上じゃないんだというと、「ちょっと怖い」って。 吉:草があるところは虫がいるだろって、全然アウトドアじゃない。コンクリートの軒下で寝て、本当にお前はアウトドアに憧れているのかって。でも何年か前のちょうど今頃、屋外でくつろいでいて、暑くもなく涼しくもなく、あ~酒うめえやとか言ってたら、新聞配達の人がすごく早くて起こされちゃうっていうオチでしたけどね。あと、アウトドア系だと七輪だね。俺、買い物を失敗するってよく言われるんですけど、七輪は良かった。七輪があまりにもかわいくて、肉とか油落ちるものは焼きたくない。 ■吉田買い物失敗図鑑 伊:最近、買い物で失敗したのなんでしたっけ。あ、スピーカーじゃない? 吉:居間のテレビを買い換えて、サイズが小さいやつだからというのもあるんですけど、音がすごく貧相で。調べたら同じメーカーで、アンプ込みのスピーカーがあって。うちのテレビは最新型だし、どう考えても合うだろうと思って買ったら、もう非対応だったっていうことがありましたよ。返品できたから良かったけど。 伊:仲間内では、買い物失敗することで有名ですもんね、吉田さん。欲しいものがあったら色々調べて、値段の安いほうに流れてくんだよね。でも、やっぱりもうちょっと高いものが欲しいって、なんていうの、大は小を兼ねない中間みたいなのを買っちゃうんだよね。 吉:今乗っている自転車が完全にそのパターンで、前はスポーツ車に乗ってたじゃないですか。それが古くなって、貰い手が見つかったんであげて、新しい自転車をすげえ久しぶ買うことにしたんです。ワクワクしながら色々調べて買ったのが、ブリジストンの普通のオヤジ仕様のもので。 伊:カゴついてるもんね。 吉:これについている三段変速のギアがつまんねえ、つまんねえ。こんなの意味ねーよって。色は気に入ったの。でも俺、カゴは欲しいけど、スポーツ車が欲しかったんだって。 伊:メモしてる知り合いもいるもんね、吉田買い物失敗図録みたいな。色々失敗してるもんね。 吉:僕より圧倒的に宅配便の荷物が来るのは伊藤さんで、ちょこちょこ買ってるよね。伊藤さんが朝日新聞で連載しているエッセイで、タオルの話をしたら反響があったんですよね。 伊:一人暮らしの女性はある日、タオルを全部同じものに揃えていいってことに気づくんですよ。そして、ふわふわのかわいいタオルを揃えておくんですよ。私も、ちょっといい女っぽいじゃんって(笑)。で結婚したら、ふわふわの対極にあるウスウスの、旅館とか温泉のタオルが混ざってきて。ああ、吉田さんはタオルにこだわりのない人なんだなって、それを捨てはしないんだけど、古くなったら油を吸わせたりしてた。そしたらある日突然、改まって、「俺はふわふわのタオルだと、体を拭いた気がしない」とか言って。ウスウスにこだわりがあって使ってた、と告白されて。それを朝日新聞のコラムで書いたら大反響で、ウスウス派が結構いた。 吉:「うちの旦那がそうです」みたいなのが多かったですよね。考えたんですけど、ふわふわのフェイスタオルっていうのは、手ぬぐいよりひとまわり大きいサイズですよね。あれはバスタオルの仲間だから、絞れないじゃないですか。多分、温泉旅館のタオルっていうのは、風呂入って体こすったりして、絞るところまでがワンセットなんですよ。 伊:ウスウス派の人が言うには、タオルでパーンと拭いたときに、垢をパーンと取っているから、もう体を洗っているんだって。 吉:僕も上京して、しばらくは銭湯に通って暮らしてたんだけど、そこで色んな作法を覚えるじゃないですか。股にパーンとやる作法とか(笑)。で、最後には今まで母親に洗って干してもらっていたのを、自分がしなくちゃいけないじゃないですか。だからふわふわの厚手の、なんて選ぶ余地が全然なくて。そのときの意識のままオヤジになったということなんだよね。 伊:結婚して5年くらい黙ってるというのがすごいなあと思って。 吉:そのときは俺のウスウスのがあるから、それを使ってたのね。そっちがウスウスを邪魔だなと思ってるということは、俺のほうこそ知らなかったですよ。 伊:こういうのはなくしたいと思ってたの。だから買い足して、どんどん減らす方向に。 吉:下高井戸のそば店のやつとかね、俺の宝ですよ。 伊:箱根のかっぱ天国が新作で入ってるよね。 吉:足湯のね。だって名前の入ってないタオルなんてつまらないじゃない、とすら思う。 伊:一緒に暮らしてても分からないことって、あるね。 吉:最近の買い物として、理佐さんが自分の一存で買ったものとしては、ハンモックがあるじゃないですか。あれは何だったんですか。 伊:ハンモックは子どもが喜ぶし、昼寝するっていうんで。あとは近所の子どもにウケると聞いたから。 吉:俺は最初、大反対して。というのは、うちは、築二十数年にしてはしっかりした和風の家で、前に住んでいた老婦人がお茶の先生をやっていて、8畳間にちっちゃいお茶の炉があるんですよ。上から鉤みたいなものがあって。俺たちは全然使っていないんですけど、かっこいいから一応残しているんです。 伊:吉田さん、つぶしてくれって言ったじゃん。でも大工さんが「これ、高いっすよ~」って言ったら、「残してください」って。 吉:つまり、そういう部屋の柱にボルトをぶちこんで、こんなのぶら下げてどうすんだよって。 伊:でもおとといだってさ、『聲の形』と『逢沢りく』をそこで読んでたじゃん。 吉:そうなんだよね。結局、賛成派にまわっちゃって。子どもはハンモックで寝てたりするよね。でも大人は寝れないよ、腰痛い。 伊:でも西原理恵子さんは、そこで大人2人がハメられるって言ってたよ。 吉:その話は。 伊:あ、言っちゃいけないんだ。 吉:はい、そうですね。ハンモックネタは描いてないな。よし、覚えとこう。 ■家賃ン百万円のお店のスーツ 吉:今日のスーツはこの日のために買いました。ディスカウントのシャツも売ってるような店なんだけど、中野ブロードウェイの一階の奥の一等地にあってけっこう広い。ネクタイはもっと、漫画のキャラクターのやつがあるんじゃないかと思ったんだけど、探す時間はなくて。 伊:お店の家賃が、月数百万って言ってたよね。 吉:でもオーナーだから家賃を払わずにすんでいる。「それでこの値段で出せるんです。普通だったら20万しますよ」って。 伊:乗せられて買ったんだよね。似合ってるよお~。 吉:このところ、スーツ着るときは喪服だったからね。ネクタイの締め方が一発で決まるようになって、やだなあって思ってたから、今日はちょっと嬉しかったですね。久しぶりに黒ネクタイじゃなくなくて。スーツは着慣れてないけれども、服として嫌いじゃない。でも、ワイシャツの第一ボタンは何とかならんかねと本当に思う。ネット検索すると、面接の心得みたいなやつで第一ボタンは絶対にはずすなって書いてあって。 伊:ずーっと、第一ボタンの悪口言ってるんだよね。きつい、はずしてく、とか。 吉:来年、卒園と入学式がくるので、そのときにも着れるかな。いい買い物したなって。 ■猫の名前は「ほしいもちゃん」!? 吉:別の家で暮らしている、上の娘がいるんですけど、来年成人式ですからね。 伊:成人の記念写真を見せてもらったけど、綺麗だったね。で、近所にいた野良猫が子猫を6匹産んで、お父さんち飼わない?って言われてたんでしょ。 吉:だから帰って一旦相談して。猫を飼う飼わないは、やっぱりタイミングじゃないですか。(伊藤さんが飼っていた)クロとニャコが死んでから、機会はあったんだよね。西原さんとか、それこそ里親募集をやっていたりするし。だから子どもが拾ってきたら飼おうって言ってたんだよね。 伊:でもなかなかなくてね。で、2匹もらうことになって。 吉:お姉ちゃんの家から来たんだよってなれば、嬉しいだろうってことになってね。見にいって、娘はその日に猫と一緒に帰れるものだと思ってたから、ちょっとまだ動物病院で預かるってことになったら、久しぶりに駄々をこねるっていうね。明日、病院に行って引き取ってくるんですけれども、名前どうしようかってね。 伊:なんか、5歳児がまた変な名前考えてるんだよね。 吉:変な話、この対談と受賞の挨拶もさすがに緊張してたんですけど、猫のこと考えるとそれが和らぐんだよね(笑)。子猫飼うのは初めてなんですよね。 伊:そうだね。ニャコとクロはちょっと大きくなってから来たから、子猫は初めてかなあ。吉田さん、今まではつき合ってたアンド結婚した女が連れてきた連れ猫ばかりで、俺は子猫を知らないんだって言ってたよね。 吉:厳密に言えば、東京で一人暮らしを始めた頃、実家に帰ったらいきなり子猫がいてちょっと遊んだことはあったね。名前をさらっとつけたいんですよ。なんも考えてないような、タマだのミケだのつけたいんだけど。子どもにまかすと、ミャーコちゃんとかになっちゃって、それも嫌だな。 伊:ほしいも、とか言ってたね。ほしいもちゃん。 吉:ほしちゃん。おお、いいなあ。ほしだったら、(『巨人の星』の)伴がいいんじゃないか。花形の「花」はどうだ。明子もいいな。 伊:ネタになるとか言ってるけど、恥ずかしいから次の日はやっぱり取り消すんでしょ。ウケると思ってる心が出てるって。 吉:そう、ここでしゃべっちゃったから、それは付けられないなあ。 ■歌舞伎とライダー 吉:ここ(浜離宮ホール)から歌舞伎座は近いですけど、理佐さん、歌舞伎は定期的に観てるよね。梨園っていうんですか、あそこの男の子が産まれるだの、あそこは女の子しか産まれないだの、あるいは女形の方々の生活だの、そういう下世話なところも好きだよね。 伊:それも大好物です。大好きです。 吉:面白い世界なんだろうなと思いますね。一緒に歌舞伎を観に行ったらこの人、一人で桟敷(さじき)席を取ってたんですよ。独身の漫画家って、そういうところに金使うんだみたいな。それで桟敷席でネームをやってるんですよ。 伊:じゃあ言うけど、桟敷席にビールの保冷バッグ持ってきて、いっぱい飲んで。歌舞伎座の喫茶室にワインオープナーあるかって聞きに行ってさ。飲む気まんまんな歌舞伎だったね。 吉:ちょっと恥ずかしかったですね。でも子どもできてからは、この人は一人だったり、歌舞伎友だちのおばさまたちと行っていて。観たい気はするんですよ、時代小説とか好きじゃないですか。あと吉原とかね、歴史的なところを散歩するの好きで、歌舞伎見るとぐっとくるからね。今後はちょっと行こうかなと思ってます。 伊:一回、ドタキャンしたからね。それから怒って、私は誘ってないのよ。気づいてた? 当日の朝、「俺、行かない」って言ったから。 吉:あったっけ? そうか……。染五郎さんが僕の名前を出したとかって教えてくれたよね。誰から聞いたんだっけ。 伊:「ゲゲゲの女房」の脚本を書いた山本むつみさんね。私のすごい前の担当さんで歌舞伎好きで、染五郎さんに脚本をお願いしてみたい人を聞いたら、3人あげて。そのうちの1人が吉田さんだったという話をしたら、吉田さんはその夜に染五郎さんの夢を見たんだよね。 吉:テレビに出てる染五郎さんを、ファンとして見ている夢(笑)。まあ、マンガ家の仕事をやってきたお陰で、芸能人に会えたりとかはよくあったよね。 伊:会ってない、会ってない(笑)。 吉:伊藤さんは山田孝之に会いたいんだよね。 伊:山田孝之さんは、(吉田さんに)似てるから好きなんだよ。アハハハハ! パソコンのデスクトップは山田孝之さんのどアップ写真にしているんだけれど、子どもがちらっと見て、「これ誰?」って聞くから、「昔のお父さんだよ。若いときの」と言うと、「すごい若いね」って。全然違う人だって、分かってるんだか、分かってないんだか。 吉:最近は見分けつくようになったでしょ。嘘だって言うようになったでしょ? 伊:どうかなあ。すごい若いということで、遠さは表している。 吉:伊藤さんは録画機能でキーワードを入れると録ってくれるっていうのに、山田孝之入れてるんでしょ? 伊:嫌なの? 吉:いやいや、嫌じゃない。俺、役者の誰とか、歌手の誰とかをそこまで好きになるとかないじゃないですか。 伊:でも、テレビでライダー関係の人が出ると「ライダー、ライダー」って。ライダー関係の役者さんは全部覚えるよね。 吉:特撮に出た人はみんな贔屓ですね。『まれ』なんてねえ、ウルトラマン映画のヒロインと、仮面ライダーフォーゼのヒロインですから、すごいっすよ。 伊:「この子、脱いじゃったけど(特撮関係だから)応援するんだ」とか言ってるよね。 吉:女性でも男性でも、特撮をプロフィールから削除した人には厳しいよね。 伊:村上弘明さんは? 吉:村上さんは、あれだけのトップスターがもうライダーやらないのはしょうがないと思うし、ちゃんとライダー時代のことも語られてますよ。あと、ウルトラマンタロウの人。ほら……、出てこない。 (客席から「篠田三郎さん!」) 吉:そう、篠田さんもタロウへの愛は語られているし。 ■ブロンズ像の謎 伊:そうそう、短編賞を2人で取ったってことで何かあります? こんな風にしゃべってるけど、全然(夫婦)初じゃないんだよね。森下裕美さんと山科けいすけさん夫婦も取ってるし。 吉:うちの担当編集者が朝日新聞から連絡いただいたときに、「夫婦初ですか?」って訊いちゃったらしいんですけど、それって「夫婦初」って打ちやすいからだよね。 伊:あとやっぱり私が先に取ったっていう、何かがあるのでしょうか。ないのでしょうか。 吉:ないんですけど、理佐さんは講談社漫画賞とわりと連チャンだったじゃないですか。 伊:講談社漫画賞はつき合う前で、手塚賞のときはつき合っていたんだよね? 吉:うん。だからアトム像を持った覚えはあるんだけど、頭の中で、あの倍くらいあるように記憶してましたよ。だから久しぶりに見て、あれ、こんな小さかったっけ?って。 伊:アトム像はかわいいんですよねー。講談社漫画賞のブロンズは、ただのオッサンでね。あれはお父さんにあげたんだけど、アトムは私がもらった。 吉:あれ、すごいよね。でかい。 伊:これ誰?って。なんかゴルフの恰好をしたおじさんだよね。 吉:すごい重いんだよね。すみません、講談社の方いらっしゃってるんだ。あの、ブロンズ像に対して疑問を呈しているだけで、賞そのものは素晴らしいですよ。 伊:ショウっすね~(笑) 吉:とりとめもない話になりましたけど。 伊:すみません、うちで飲んでるみたいな話をして。本当に失礼しました。
dot. 2015/06/17 11:30
「できれば原石級の女性に出会いたい」独身男子のホンネ座談会
「できれば原石級の女性に出会いたい」独身男子のホンネ座談会
社会学者の水無田気流さん(右)を司会役に、4人の男性が語り合った。みんなおしゃれでカッコよく、コミュニケーション能力も高い(撮影/工藤隆太郎) 過去に結婚しようと思った相手がいると口をそろえる。かつての恋愛経験が美化され、「越えられないハードル」として大きく横たわる(撮影/工藤隆太郎) Aさん(43)外科医。都内で一人暮らし。家具はIKEAで揃える。趣味は読書。夕食はカップラーメンの日々。年収は約1500万円(撮影/工藤隆太郎) Bさん(36)コンサルティング会社勤務。都内で一人暮らし。遠方の取引先が多く、土日関係なく駆け回る。年収は約1100万円(撮影/工藤隆太郎) Cさん(38)IT系会社勤務。趣味はゴルフ。社会人になって学校に通い直し、転職を経て現職。母親と2人暮らし。年収は約600万円(撮影/工藤隆太郎) Dさん(37)サービス業。都内で一人暮らし。料理が得意で、会食がない日は3食手作り。お菓子作りが趣味。年収は約900万円(撮影/工藤隆太郎) 宝の山ここにあり。こんな高スペック男子が独身だなんて! それもそのはず。聞いてみると、結婚の条件とこだわりポイントが山積みで……。(構成/編集部・柳堀栄子) 水無田気流さん 見たところみなさんモテそうですよね。なのに結婚していない。今までに結婚したいと思ったことはありますか? Aさん 僕は2回したいと思ったことがあります。1回目は医学生のとき。でも学生結婚は難しいと思って諦めました。もう1回は3年前。僕は医者家系で、医者の娘と結婚してほしいと両親に言われていたから、猛反対されたんです。でも、親の意向は無視して結婚しようと決意し、彼女に連絡をしたときには、時すでに遅しで結局別れてしまいました。 Bさん 僕も地方出身の長男だから、親戚からは必ず地元の人と結婚して家を守りなさいと小さい時からずっと言われ続けているんです。会計士と税理士の資格を取って地元の県庁に勤めなさいと。結婚を考えたのは27歳のとき。東京で3年付き合っていた彼女と結婚しようと思ったのですが、ちょうど僕が昇進したタイミングと同じで。任された仕事を責任をもってやりたいと思った時期と重なった。僕が土日休みじゃなくなって、出張も続いたので全然会えなくなって、歪みができてしまいました。なんで僕の仕事の事情を理解してくれないかな、と思ってしまいましたね。 ●女性は「3年」が限界 Cさん 僕も32歳のときに3年付き合った彼女がいて。でもその頃の僕は転職活動真っただ中で結婚を考える余裕がなかった。彼女は「3年付き合ってプロポーズされなかったら別れる」と決めていたようで、誕生日の日に突然の別れの電話がきました。 Aさん 泣きつかなかったんですか? Cさん 「半年後に結婚しよう」と言ったけれどダメでした。それまでに「家族が欲しい」とやんわり言われてたけど、僕が濁していたので、彼女としてはもう限界だったみたいです。 Dさん 女性って、恋愛スイッチが一度OFFになったらもう二度とONにならない。それどころか、そのスイッチの棒をへし折りますよね。男性は仕事のこととかあって、すぐには結婚の決断ができないんですが、その迷いを許してくれない。僕もかつて結婚話が出た彼女がいるのですが、彼女は別れた3カ月後に別の彼氏をつくり、その1カ月後に結婚しましたとフェイスブックにアップしていて、唖然としました。おそらく僕と付き合っていた最後のほうって、重なってた男性がいたのかなと。 Cさん 後輩女子に、常に10人くらいの「友達以上彼氏未満みたいな男性」のストックを持っている人がいました。まるで鵜飼いみたいに……。 Dさん 一日4件の合コンをこなしているという女性もいましたよ! 水無田さん 統計でみると結婚する相手との交際年数は平均4年です。結婚準備に1年かかると考えるから、女性は「3年」がリミットのようです。そこで決断しない男性なら「なし」となる。みなさんが経験した「3年付き合った彼女との別れ」はまさにこれですね。でも女性の気持ちを代弁するなら、男性が全然結婚したがらないという意見もあります。みなさん、今はどれくらい結婚したいですか? ●直球で年収は引く Aさん・Bさん 100%です。 Dさん 90%。子どもが欲しいので。自分の赤ちゃんのときの写真を見たら可愛くて欲しくなりました。 Cさん 僕は50%くらい。会社には若くして結婚した人もいるけど、30代になって離婚した人もいる。離婚理由は、手もつながないし、話もしない。子どもがいると、旦那はお金を持ってくればよくてあとは用済みだから。そんな話を聞くと、結婚に価値があるとは思えない。最近はひとりの老後をどうやって過ごすか考え始めました。 Bさん 女性は現実的ですからね。 Cさん 今の女性たちは、職業とか、年収を男性に期待するから合コンでもずけずけ聞いてくる。「職業とか収入なんてなんでもいいから、頑張っている男性が好きだ」と言ってくれればいいのに。 Dさん いますよね。合コンで「年収どれくらい?」と直球で聞く女性。あれは正直引きます。「もしあなたがリストラされても、私が稼ぐから大丈夫だよ」って言ってくれるほうが、守りたいっていう男魂に火をつけると思うんだけど。「リストラされたら、そんな泥舟からは逃げる」と答えた女性がいて、正しいのかもしれないですが、ちょっと驚きました。 ●忙しくても笑顔の人 Aさん でも逆に女性に年齢を聞くと怒られますよね。紹介したい子がいると言われて「可愛くて料理がうまい子だよ」と言われたから「年は?」と聞いたら、「年をストレートに聞くなんて失礼です」とメールがきた。紹介されるからには事前にちゃんと知っておきたかったのに。僕は医者で不妊治療の大変な状況とかを見聞きしているので、自分の年齢を棚に上げて本音を言うと、結婚する相手の女性は30代前半までがいいと思いますね。 水無田さん 結婚相手について「女性は年収、男性は年齢」を気にするという話が出てきましたが、結婚するなら、どんな女性がタイプですか? Dさん 意識が高い人がいい。共働きが理想なので。 Bさん 社会常識のある自立した女性が理想です。僕は一人暮らしが長いので、だいたいのことが自分でできる。それなのに、電気やガスの契約の仕方も分かっていないなんていう女の子がいて、そういう子は嫌ですね。最初は可愛いなと思っても、仕事が忙しい時に聞かれると、勝手にやってくれと思ってしまう。 Aさん 社会常識が身についている子は、友達に会わせても、どこに連れていっても恥ずかしくない。そういう賢い子が好きです。あとは穏やかな人。普段、仕事で疲れているのでケンカは嫌です。あと、いつも笑顔な人がいいですね。仕事が忙しくても笑顔でこなす心身ともに健康な人。自分もそうであるよう気をつけていることなので。 水無田さん Aさんはずいぶん人間のスペックが高い人がいいんですね。人間的な頭の良さは数値化できない能力で、お見合いの釣り書きに書かれないことだから、すぐには分からないですよね。 Aさん だから、なかなか独身を抜け出せない!! ●乙女な部分は残して Dさん 僕はできれば、原石級の女性に出会いたいんです。女子磨きってありますよね。あれって適度なところでやめないと結婚の弊害になる気がする。男子から見ると、必要経費が高そうで近づけない。僕は料理が趣味で、時々ケーキを焼いたりするのですが、だからといって相手が料理を作れなくてもいいんです。でも、ただ一つ水回りは気になる。やっぱり、あのクリーンじゃない部分がいつもきれいな人だといいじゃないですか。 水無田さん それって、お姑さんに言われるよりきついかもしれません。 Cさん 確かに、僕も前の彼女が前日の晩ご飯のお皿を洗わずに置いてあったのを見て引きましたね。 Dさん シンクの汚れは気になりますよね。僕にはできない家事があって、それはほつれたボタンを付け直すこと。あれをやってくれたら一発で好きになる。 Aさん 今日僕は、ボタンを自分で縫い付けてきました。24年一人暮らしをやっていると何でもできるようになるんですよ(笑)。 Cさん 僕は今、母親と一緒に暮らしているのですが、快適です。仕事で遅く帰ってもご飯が出てくる。昔から母と仲がいいんです。会社で結婚している人を見ていると、奥さんに「今日仕事が遅くなるからご飯いらない」とかコソコソ電話している。あれは大変そうだなと。 Aさん 大学の後輩の女性たちを観察すると、家庭を任せられるなと思う子から順にちゃんと結婚している。やっぱりそういう子から選ばれていくんだなと思います。だから独身を謳歌している人じゃなく、誰もが結婚したくなるような子なんだけど、たまたま結婚でもめて別れたばかりという女性と、うまいこと出会って結婚できたらいいなって。 水無田さん でも、家庭を任せられるからといって、「肝っ玉母ちゃん」みたいなビジュアルは嫌でしょ? Dさん ちゃんと乙女な部分は残しておいてほしい(一同うなずく)。 水無田さん みなさん、結婚したいと言いつつも、全然誰でもいいわけじゃないんですね。どんな出会い方が理想ですか? Bさん 20代のときは、恋愛ドラマみたいな出会いが理想的だと思っていました。ハンカチを拾って彼女が振り返って……みたいな。でも実際は合コンなど出会える場所に行かないと機会もない。だから、最近は仕事が忙しくても断らずに積極的に行っています。 Cさん この前、話題の「街婚」に行きました。でも、自然じゃないんです。女性もガツガツ聞いてくるから僕には合わなかった。 Aさん 結婚相談所を利用しようと思ったのですが、自分が求めているところがスペックでは判断できないところなので諦めました。やはり、普通の恋愛結婚が理想です。 ●「スピード感が違う」 Dさん 僕は「大学で出会って社会人2年目に結婚」っていうのが最高だと思う。結婚式で「出会いは友達の友達です」というのはだいたい合コン。それってやっぱり自然な出会いじゃないから。 Bさん 最近は親がお見合いの話を持ってきます。しまいには、近所の人までいい人がいると言ってくれて。自分はどんだけ心配されているんだろうって。ありがたいですがショックでした。結局会わなかったです。 Cさん 30代後半になって結婚していないというのは、決定的にヤバいところがあるんじゃないかと、どこに行っても言われます。 Aさん 僕は今43歳ですが、1年以内に結婚できないなら妥協しようと思うくらい焦ってます。40代になると急にモテなくなる。スピードアップしないと間に合わないと感じていて、これが30代前半の結婚したい女子の気持ちなのかと。 水無田さん 学生さんと話をしていると女性はみんな30代前半までに結婚したいと思っている。男性と10年くらい時間軸がずれているんですよ。 Bさん 以前、「あなたとはスピード感が違う」と女性に言われました。付き合う前に月1回くらい会って、いい感じになってきて6カ月目くらいに告白するというシナリオを描いていたら、3カ月目にその女性に「私のことどう思ってるの?」と聞かれた。ショックでした。30代前半の女性は婚活が業務的! Dさん 両親が僕を見て「私たちは孫の顔が見られないのか」とポロッと言った。そうか、親の人生は孫を見ることで完成されるのかと思うと、そろそろ結婚しなくちゃと焦ります。 ●男の寂しさは補えない Bさん 僕も、親のためにっていうのはありますね。結婚したきょうだいに会うと、家庭をつくるとこんなふうに楽しく生きられるのかなとも思う。 Aさん それは男性も30代だから感じることなのかもしれない。歳を過ぎると誰かのためというより、本気で寂しくて、ただ自分のために結婚したい。今も寂しいのに、老後も一人なんて考えられない。お金を稼ぐ目的もわからなくなってきた。 Bさん 僕も寂しいです。特に仕事から帰った金曜日の夜とか。 Aさん この何ともいえない男性の寂しさは独身同士のコミュニティーがあったとしても補えないと思う。女性は80歳でも友達と歌舞伎を見に行ったりするけど、男ってあまり群れないから。 水無田さん みなさん仕事以外の人間関係もありそうなのに、寂しいというのは意外でした。 Bさん 矛盾してますが、寂しいと言いつつひとりでもいたいんです。そんな時はひとりでバーに行ってボーッと過ごす。 Cさん 僕は一時期すごい合コン三昧で、たくさんの女性と出会ってLINEでメッセージのやりとりをしていたのですが、好きでもない人と実りのない会話をしていることがむなしくなって連絡するのをやめました。 Dさん 結局、世の中をあまり知らない若いうちに結婚するのが平和なんだと思う。女性を必要以上に見過ぎたのかもしれない。僕たちも、年を重ねるごとに「男子力」が上がってしまったような気がします。 (協力 品川プリンスホテル Nタワー ビジネスラウンジ) ※AERA 2015年6月22日号
おひとりさま結婚
AERA 2015/06/15 00:00
日本の「左手の音楽」に高い評価 病克服のピアニスト演奏
日本の「左手の音楽」に高い評価 病克服のピアニスト演奏
THE BEST(7)舘野泉【HQCD】 Limited Edition Amazonで購入する  現代日本ほど、おもしろく、自由で変化に富んだ左手の音楽を生み出している国はない。欧州の専門家も評価する状況を生んだのは小さな募金だった。  今年の2月20日、東京オペラシティコンサートホールではピアニストの舘野泉を中心とする「奇跡の左手」コンサートと「舘野泉左手の文庫募金」への寄付を呼びかける記者会見が開催された。2002年に脳出血のためステージ上で倒れた舘野はリハビリを経て、左手だけで演奏活動を再開。その後は多くの作曲家に左手で演奏する曲を委嘱し、世に問うてきた。  病を克服し、左手で演奏する姿は多くの人に力を与え、新しいファンを開拓したが、そういうとらえられ方だけでは舘野も不本意だろう。なぜなら、聴き手にとっては、それまで知らなかった左手の創造力との出会いとなるからである。  バッハの名曲「シャコンヌ」(ブラームス編曲)。ヴァイオリン独奏でおなじみの曲が、舘野の手にかかれば、複雑なニュアンスや音の強弱によって、厳しい美しさを生み出す。吉松隆の「タピオラ幻景」シリーズは、舘野が長年暮らすフィンランドの光や風が肌で感じられる。仕事で疲れた夜に聴けば、深い安らぎを感じるはずだ。それらはすべて、左手の5本の指だけで生み出したものだ。 「僕も倒れる前は、左手は伴奏のように思っていた。実際に左手だけで演奏するようになってみると音楽をやるうえでなんの不足も感じない。両手で弾いていた時にはなんて左手をおろそかにしていたんだろうと思うほどですよ」  問題は曲の不足だった。舘野が演奏活動に復帰した直後、新たに作られた左手用の曲は、間宮芳生とフィンランドの作曲家ノルドグレンによる作品の2曲だけ。ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」などの名曲はあったものの、舘野にはとうてい物足りなかった。  その後、舘野は06年に「舘野泉左手の文庫募金」を設立。コンサートを開くたびに寄付を呼びかけ、子どもが募金箱に入れてくれる10円玉から篤志家の100万円まで、すべて個人からの寄付が昨年までで1048万円集まった。それを資金に委嘱された左手のための曲は34曲に及ぶ。 「最近ではウィーンで左手の音楽の専門書を出した研究家が、『現代の日本ほど、おもしろく、自由で変化に富んだ左手の音楽を生み出しているところはない』と書いているほどです」 ※AERA 2015年5月25日号より抜粋
病気
AERA 2015/05/31 07:00
宮本輝の名作「螢川」が生まれたのは奥さんのツッコミのおかげ?
宮本輝の名作「螢川」が生まれたのは奥さんのツッコミのおかげ?
宮本輝さん(左)と林真理子さん(撮影/写真部・大嶋千尋) 「泥の河」「螢川」『優駿』『約束の冬』など数々の名作を世に残し、68歳の現在が「いちばん仕事をしている」という作家・宮本輝さん。そんな宮本さんが小説を書き始めたきっかけを林真理子さんとの対談で語った。 *  *  *   林:有名な話ですけど、若き日の宮本さんが文芸誌を読んで、「こんなものなら自分も書ける」と思って小説を書き始めたんでしょう? 宮本:雨宿りで本屋さんに入って文芸誌を立ち読みしたんですけど、つまらなくて、つまらなくて。そのうちおもしろくなるかと思ったら、最後までつまんなかったの。「これが有名な文芸誌の巻頭を飾る短編なのか。これよりもっといい小説、俺、明日書いてやる」と思ったの。 林:ええ、ええ。 宮本:そのときパニック障害という病気にかかっていて、一人で電車に乗れなかったんです。「この程度の小説で原稿料もらえるなら、俺なら倍ぐらいもらえるやろ。よし、会社やめよう」と思ってほんとにやめたの。 林:広告会社でコピーライターしてらしたんですよね。前職、私と同じ。 宮本:そうそう。まあ、明日には書けなかったけどね(笑)。小説ってどう書くのかなと思って、最初に森鴎外の『阿部一族』のマネして書いたら3行で止まって、次は三島由紀夫の『美徳のよろめき』を参考に5、6行、今度は島崎藤村の『夜明け前』で書いたら、支離滅裂やねん(笑)。こうなったら嘘八百書いてやれと思って、行ったこともないのに、タイを舞台に書いた。ムチャクチャやね(笑)。でも「文學界」の新人賞で最後の8作ぐらいに入ってたんです。 林:すごいじゃないですか。それ、出版されたんですか? 宮本:のちに『愉楽の園』という本になりましたよ。 林:名作に生まれ変わったんですね。 宮本:書きかけのころに家内が、「タイに行ったことあるの? そんな話聞いたことないけど」って言うの。こいつ勝手に読んだなと思って、「行ったことない。ガイドブック見たらだいたいわかるがな」って。落ちたときは「だから落ちたのよ。ザマミロ」って言われて。それで今度は行ったことのあるところを書こうと思って、「螢川」を書いたんです。 林:そうだったんですか。「螢川」の舞台も富山ですし、富山は宮本さんのふるさとなんですね。 宮本:ふるさとというか、中古車ディーラーをしていた父が、地方にも中古車の時代が来ると思って家族で富山に行ったんですね。ところがまだまだ早かった。2カ月ほどで父だけ大阪へ帰って、僕と母は富山で父の仕送りを待つ日々ですよ。 林:ええ。 宮本:初めて富山に行った日も、大阪へ帰ってきた日も大雪。鉛色のどよーんとした雪の1年間だったという記憶があるんですね。「螢川」があれだけ暗いのは、そのイメージをまな板にしているからなんです。 林:なるほど。 宮本:父が富山に帰ってきたとき、天気のいい日は2人でサイクリングに行ったんです。田んぼの道を、母がつくった弁当を持って。この小説を書くために富山を回ったとき、父と一緒に稲穂の中をサイクリングしたり、神社で休憩したりした夏休みの記憶がふっと立ってきたんです。あとになって気づいたんですけどね。 林:小説の最後の場面を読んで、自転車が主人公かもしれないと思いましたよ。 宮本:かもわかりませんね。僕が10歳ぐらいですから、58年前ですよ。それがこの小説の根底にあるのかも。 ※週刊朝日 2015年5月8-15日号より抜粋
週刊朝日 2015/05/07 11:30
伏魔殿PTA 「仕事の削減」で不満の声?
伏魔殿PTA 「仕事の削減」で不満の声?
業務を共有しよう!共働きも専業主婦もできるときにやり、他の人の事情を尊重する。ITを活用し、一人ひとりの負担を減らそう……という声も(撮影/写真部・植田真紗美)  強制的に役員にさせられ、仕事を休んで無償奉仕。伏魔殿のようなPTAは敬遠される存在だ。そんなPTAを変えようと奔走する人もいるが、頓挫する例は少なくない。一方で、参加しやすい仕組みを取り入れ、改革に成功している学校もある。  会議は平日昼間。仕事があってもPTAを優先して当然。この「鉄板ルール」が、働く親がPTAを敬遠する大きな要因だ。  東京都江戸川区で料理教室を主宰する棚瀬尚子さん(44)は5年前、公立小のPTA広報委員を担当し、くじ引きで委員長を任された。仕事があって、平日の会議には参加しづらい。PTAの活動内容を全面的に見直し、かかる時間を計算したうえで、委員に細かく割り振った。  初めての打ち合わせで、「1学期の間、一人2時間だけ手伝ってください。過去にとらわれず仕事を削減します」と訴えた。委員の負担が大幅に減り、歓迎されると思いきや、上がったのは不満の声だった。 「PTA室は母親たちのコミュニケーションの場でもありました。学校に出向くことを楽しみにしていた人たちが、仕事の削減によって存在意義を否定されたと感じたようです」  結局、改革は1年で頓挫した。  横浜市のある公立小でもPTAの会議は平日の午前中。IT企業勤務の女性(42)は昨年度、学年委員を務めたため、学校行事も含めると月3回、半休を取らなければならなかった。  地域柄、共働き世帯は少なく、7割が専業主婦。役員は「責任をもって職務をまっとうする」ために、夫と交代もできない。そもそも男性は会長だけの「女の園」だ。職場の上司に「今年は迷惑をかけます」と頭を下げ、有休を節約するため自分は発熱しても出社した。  働いている人は平日昼に都合をつけにくく、専業主婦は家族が自宅にいる夜間や週末は出かけづらいといった事情もあり、誰もが納得する会議時間の設定は難しい。  品川区立小中一貫校の日野学園のPTAは、都合のつく日に参加できる仕組みだ。平日昼でも週末でも可能で、難しければ「すきま時間」に単発の仕事を手伝うなど、関わり方を自由に選べる。「資料は作ったので印刷しておいてください」「時間がなかったので各クラスに配る準備はお願いします」など、メールやLINEで業務を共有し、引き継ぐことができる。  顔を合わせる会議は月2回の土曜登校日に設定し、「子どもと一緒に登校して一緒に帰宅する」というコンセプトで家族の時間を妨げないようにしている。昨年度まで3年間PTA会長を務めた鴇田(ときた)宣一さん(50)は外資系企業に勤めるサラリーマン。役員の3分の2が仕事とPTAを両立しているという。 ※AERA  2015年5月4日―11日合併号より抜粋
AERA 2015/05/04 11:30
軽度認知障害の記者 NHK出演を決断した理由
軽度認知障害の記者 NHK出演を決断した理由
3月初旬に電話が…  認知症予備軍とされる軽度認知障害(MCI)は治るのか。早期治療実体験ルポを続ける「ボケてたまるか!」の筆者・山本朋史記者にNHK特番(放送は総合テレビ27日夜10時)から出演依頼がきた。まだ回復途上だが、治療の一環と引き受けたという。そのようすを記者自身がレポートする。 *  *  *  NHKが認知症キャンペーンに力を入れているのは知っていた。認知症が社会問題化してから、NHKはニュースを大きく取り上げた。昨年、7年前に行方不明になった認知症患者の身元がわかり家族と対面できたのも、NHKスペシャルの認知症特集がきっかけだった。  そのNHKから、出演の依頼がぼくにきた。3月初旬、NHKエデュケーショナルの成田花緒里さんからの電話が端緒だった。成田さんとはぼくが昨年11月に認知症サミットの後継イベントでオープニングスピーチをした際に、朝田隆医師に紹介された。主に科学番組を担当するプロデューサーである。 「山本さんに詳しく話を伺って番組を作れないかと思っています。時間をとっていただけませんか」  ぼくは戸惑った。週刊朝日で連載中、友人に頼まれてBS11の報道番組に朝田医師と出演したことはある。でも、NHKとなると……。視聴者数は多いし影響力が大きい。とにかく話を聞いてみることにした。ぼくがメールで候補日をいくつか挙げると彼女は即決した。 「では、明日の午後に」  簡単な企画書を携えた成田さんと会った。  NHK認知症キャンペーン特集番組「これが認知症を防ぐチョイスだ!」というタイトルだった。認知症キャンペーンとEテレの「チョイス@病気になったとき」のコラボで、NHK総合の4月27日夜10時からというプライムタイムではないか! ぼくは「チョイス」を見たことがある。MCのタレント、星田英利さん(愛称ほっしゃん)と浜島直子さんが専門医と進める医療番組だ。成田さんは、ぼくの今後の予定を詳しく尋ねた。  安野光雅さんと津和野で打ち合わせがあること、山藤章二さんとの打ち合わせのことなどを話すと、現場でカメラを回したいという。MCIを告白して以降の仕事ぶりはどうか、スムーズに続けられているのか、上司にインタビューをしたいとも。実はこのときに他の番組からの打診もあった。成田さんの番組をチョイスしたのは、番組の舞台「認知症カフェ」のマスター役、山本哲也アナウンサーがぼくの亡き父と同姓同名で、何だか「縁」を感じたせいもある。カメラは時に密着で合計10時間以上も回された。  スタジオ収録日は4月13日。午後1時に東京・代々木のNHK西口玄関に行く。成田さんが迎えに出ていてくれた。案内されて放送センター4階の打ち合わせ室に。スペシャルアドバイザーの鳥取大学医学部の浦上克哉教授とお会いする。日本認知症予防学会理事長で、発売されたばかりの週刊朝日ムック「すべてがわかる認知症」でも1項目解説していただいている。  山本マスターやチョイスアドバイザーの徳田章アナウンサーとも会って弁当の食事。台本に沿って簡単な打ち合わせをした。ぼくはこの段取りが苦手だ。事前にいろいろ聞かれると、本番で話すことがなくなってしまう。  浦上教授から細かい状況を聞かれた。早期治療をしながら仕事をすることの楽しさや難しさを話した。浦上教授から、ある程度の負荷をかけるのはいいが、かけすぎてストレスを感じるようだとMCIから認知症に進行することもあると聞いて驚いた。認知症と運動理論を研究している国立長寿医療研究センターの島田裕之さんもやってきた。みなさん顔見知りのようだ。番組の最後でぼくは運動をしながらシリトリをするデュアルタスクに挑戦することになっているらしい。1年2カ月にわたり各種トレーニングを欠かさずにやってきたが、このデュアルタスクが最も苦手だ。 (※後編に続く) ※週刊朝日 2015年5月1日号より抜粋
ボケてたまるか!介護を考える
週刊朝日 2015/04/23 11:30
四月は少しつめたくて
四月は少しつめたくて
 おしゃれな女性誌の編集部を退職し、畑違いの『月刊現代詩』に移った「わたし」。谷川直子『四月は少しつめたくて』は、宮澤賢治の「永訣の朝」くらいしか詩の記憶がない新米女性編集者が、詩が書けなくなった大物詩人に新作を書かせるべく孤軍奮闘する物語である。  13年も詩を書いていないという詩人の藤堂孝雄は、新人とはいえ40歳をすぎた「わたし」こと今泉桜子に出会うなり「きみ、金持ってる?」といった。連れていかれた先はパチンコ屋。2度目に会って出かけたのは大井競馬場。「詩人が金持ってるわけないだろ。持ってたら詩人じゃない」とうそぶく藤堂。教科書にも作品が載っていた60歳すぎの詩人のダメさに「バカじゃないの、こいつ」と思いつつ「じゃあ競馬をテーマにした詩を書いてくださいよ」と彼女はあくまで粘るのだが……。  もうひとりの視点人物は、元文学少女で藤堂が主催する詩の教室に通う「私」こと50代の主婦・清水まひろ。彼女は一人娘があらぬ疑いをかけられ、口を利かなくなったことに悩んでいた。その娘の本棚に藤堂の詩集があったのだ。リーダブルな読み心地にもかかわらず、こうして小説は徐々に詩の言葉とは何かというディープな世界に踏み込んでいく。  桜子の求めに応じなかった藤堂が新聞のシャンプーの全面広告に詩を寄せていた。「なんで新作がここに載ってるんですか?」と詰め寄る桜子に藤堂はいった。「新作? それは詩じゃない。ボディコピーだ」「こんなひどい詩は書かない。金に目がくらんで広告の仕事を引き受けたんだ」。で、その作品とは──。 〈涙とともに/夜を明かしたことのないものは/朝の光の中でまどろむ/乙女の髪の冷たさを知るはずもない/その艶やかなうねりの中の/深いかなしみが/彼女をいっそう美しく輝かせることさえも〉  なるほど微妙かな。作者は高橋直子名で競馬エッセイなども出していた期待の作家。さて、詩とコピーの差があなたには理解できるか。 ※週刊朝日 2015年5月1日号
今週の名言奇言
週刊朝日 2015/04/23 00:00
大橋巨泉、みのもんた、アグネス・チャンが語る愛川欽也さんの意外な素顔
大橋巨泉、みのもんた、アグネス・チャンが語る愛川欽也さんの意外な素顔
「トラック野郎」シリーズで菅原文太さん、せんだみつおさんと共演 (c)朝日新聞社 @@写禁  おまっとさんでした──。その、いつもの挨拶を聞くことはもうできなくなってしまった。4月15日夕、愛川欽也さんの自宅前には50人を超える報道陣が集まったが、妻・うつみ宮土理さん(71)は2日間、沈黙。その後、肺がんで死去したという衝撃の発表が行われた。享年80歳だった──。  予兆はあった。愛川さんは3月7日に20年間続けた「出没!アド街ック天国」(テレビ東京系)の放送1千回目を最後に退き、自ら運営してきたインターネットテレビ局「kinkin.tv」も4月6日で休止。「重病説」が取り沙汰される中、15日午前5時11分、帰らぬ人となった。  愛川さんは東京の巣鴨生まれ。戦時中は疎開で、茨城、福島、埼玉を転々とした。埼玉県立浦和高校を中退し、俳優座養成所の研究生になった。俳優座を退団後は、アメリカのテレビドラマ「ルート66」(1962年放映)の吹き替えなど、「声」の仕事で活躍し、70年代には深夜ラジオ「パック・イン・ミュージック」(TBS)のディスクジョッキーとして人気を得た。そのころ、文化放送のラジオ「セイ!ヤング」で活躍していたみのもんたさんはこう話す。 「欽也さんとはライバルでした。ラジオの深夜放送で真っ向勝負だった。楽しかった時代ですよ。真夜中にリスナーはみんな、欽也さんのしゃべりを聴きながらゲラゲラ笑った。下ネタもあったけど、明るい軽快なしゃべりの人で、聴取率は断トツでしたね。僕も聴き惚れたもの」  78年には、前妻と離婚した翌日にバラエティー番組「シャボン玉こんにちは」で共演していたうつみさんと再婚した。  活躍の舞台をテレビに移した愛川さんを追いかけるように、みのさんもテレビ業界に飛び込んだ。 「『なるほど!ザ・ワールド』(フジテレビ系)でご一緒させていただいて、ずいぶん長い付き合いになりました。欽也さんは、テレビを意識していなくて、ラジオどおりのしゃべりをやる人で、自分のスタイルを完璧に持っていた」(みのさん)  70年代に菅原文太さんと愛川さんの共演でヒットした映画「トラック野郎」シリーズに出演したせんだみつおさんもこう話す。 「テレビ局、映画会社のスタジオの控室でも、常に笑みを浮かべて、よくしゃべる人でした。お疲れだろうにと思っていたら、うつみさんが『家に帰ったらもっとしゃべってたわよ。ノーギャラなのに』と言っていました。トラック野郎の仕事をさせてもらったときには、監督にも『せんだはおもしろいんだよ』と紹介してくれて、菅原文太さんにも『せんだは俺の子分だから』と言ってくれた」  キンキンの愛称で親しまれ、司会した番組は長く続いた。74年から務めた深夜番組「11PM」(日本テレビ系)の司会は12年、81年に始まった人気番組「なるほど!ザ・ワールド」は15年、「アド街ック天国」も20年続いた。  歌手のアグネス・チャンさんは、愛川さんを「恩人」と慕っていた。バラエティーに慣れていないころに、「なるほど!ザ・ワールド」で、声が小さかったアグネスさんに、「思いついたことは、大声で言いなさい」とアドバイスをくれた。 「それで大きな声で言ってみたら、必ず拾ってくれて、笑いに変えてくれたんです。それで“天然ボケ”だっていうふうに言われるようになって。仕事に悩んでいた時期だったのですが、それがきっかけでもう一度波に乗ることができたんです」  子連れ出勤の是非を問う“アグネス論争”が起きた際には、収録のたびに楽屋に顔を出してくれたという。 「赤ちゃんを見に来てくれて、『みんなついているから』って言ってくれ、優しく見守る方でした。私がマネジャーと結婚したときも日本での披露宴に来てくれた。その後もパーティーなどでお会いしたら、『どうだ、元気か』と必ず声をかけてくださいました」 (本誌・上田耕司、山岡三恵) ※週刊朝日 2015年5月1日号より抜粋
お悔やみ
週刊朝日 2015/04/22 07:00
粛々とではなく黙々と作業強行? 沖縄は日本の植民地なのか
粛々とではなく黙々と作業強行? 沖縄は日本の植民地なのか
 米軍普天間飛行場(宜野湾市)の辺野古移設問題を巡る翁長雄志(おながたけし)知事(64)と菅義偉官房長官(66)と会談がようやく実現した。しかし、翁長知事は「上から目線の『粛々』という言葉を使えば使うほど県民の心は離れ、怒りは増幅していく」と日本政府の意向を一蹴。さらに9日には、沖縄経済界も新基地建設阻止を目的とする「辺野古基金」を創設した。  精神的に、経済的に、沖縄は日本から自立しようとしている。菅長官は、沖縄から戻った翌日の会見で、「粛々と」という表現について「不快な思いを与えたということであれば、使うべきじゃない」と表明せざるをえなくなった。  だが、言葉を慎んだからといって、現実が変わるわけでもない。  7日夜、移設反対派市民の座り込み抗議活動が続く米軍キャンプ・シュワブゲート前(名護市辺野古地区)で、突如として国道の歩道がふさがれ、車道にせり出す形で白いフェンスが設置された。市民によるゲート内の監視を防ぐ措置だと思われる。  警備にあたった県警機動隊や警備員は約60人。ゲート内にも数十人が待機していた。説明なく公道で作業が始まったことで、市民と一触即発の状態になった。反対派市民は、 「『粛々と』という言葉は使わないから、『黙々と』やるということか!」  と怒りの声をあげた。  抗議行動に参加しながらも、その光景を遠巻きに眺めていた那覇市在住の20代女性がいた。彼女は、この光景に「沖縄は植民地なんです」と話す。 「あそこに並んでいる機動隊に、私の友達がいるんです。本土の人間はいつもそう。自分たちはゲート内の安全な場所にいて、反対派の制圧は沖縄の人にやらせる。彼らだってこんな仕事はやりたくない。3月には、沖縄の監視員を監督するために、東京からわざわざ人を派遣してきた。基地問題を使って、沖縄の人同士を対立させる。どうして私たちが引き裂かれないといけないんですか」  政府は強行突破を“粛々と”進めているが、翁長知事は「辺野古に新基地はできない」と断言している。その根拠は何か。辺野古で抗議活動を続ける沖縄平和運動センターの山城博治議長は「勝利は見えている」と言う。 「埋め立て工事を始めるには、埋め立て予定地に流れている美謝(みじゃ)川の水路を変更しないといけない。それには名護市の許可が必要ですが、環境の負荷が大きく、承認されることはない」  稲嶺名護市長も移設反対で、現在は沖縄防衛局は申請書類すら出せていない。さらには工事の継続も難しい。 「埋め立てが始まると、土を運び入れるために、1日500台以上のダンプが4年間もゲートを通過する。本土から運ばれた土には外来生物がいるので、ジュゴンの住む辺野古の海に重大な影響を与える」(県幹部)  キャンプ・シュワブゲート前の抗議活動には、那覇市から毎日貸し切りバスが運行されている。ダンプが走るようになれば、反対派市民が集結し、体を張って土砂の搬入を阻止する可能性が高い。 「あの場所には、これまで反基地運動に縁のなかったおじい、おばあや普通の母親がたくさん参加している。命がけで抗議活動をしていて、頭が下がる。流血の事態になって犠牲者が出る前に、あらゆる方法を使って埋め立てを阻止しないといけない」(知事周辺) ※週刊朝日 2015年4月24日号より抜粋
沖縄問題
週刊朝日 2015/04/15 07:00
物議かもす「残業ゼロ」制度 助かる人も?
物議かもす「残業ゼロ」制度 助かる人も?
働き方を抜本的に変えなければ…(イメージ写真) @@写禁  安倍政権が導入を進めている「新しい働き方」が、波紋を呼んでいる。一定基準を満たした従業員に残業代などが支払われない「高度プロフェッショナル制度」を柱とした一連の労働関連法で、労働側からは「残業代ゼロ制度」だとの声もあがっているという。  通常、残業には時間外手当が、休日や深夜勤務にも相応の手当が支払われるが、この制度下では年収1075万円以上の専門職など、対象となる労働者には支払われない。  現場で働く人たちは、これをどう考えているのか。 「この制度は、管理職にとってはありがたい面もある」と言うのは、情報通信機器メーカーで生産技術チームを率いる男性(52)。男性が勤める会社は、従業員の健康に配慮し、月60時間以上の残業を規制する。だが日頃からメンバーは月50時間程度の残業をしており、納品前には60時間超えは必至。でも規制を優先すると納期に間に合わず、困っているという。 「部下の健康は心配。でも納期を守らねばならない管理者にとっては、この制度にはメリットもある」  この男性管理職が勤める会社には海外に関連会社があり、類似の制度をすでに導入している会社もある。彼らは、忙しいときはがむしゃらに働き、閑散期はプライベートを充実させるなど、働き方に「メリハリ」があるという。その意味で、男性は「一労働者としては本制度に期待するところもある」と言うが、そのためには働き方を抜本的に変えねばならないとも考える。 「海外では一人ひとりの仕事や成果が明確なので、それが終われば堂々と休める。だが日本ではチーム作業が多いため、割り切って休みづらい」 ※AERA 2015年4月6日号より抜粋
仕事
AERA 2015/04/07 16:00
中国出身「歌舞伎町案内人」が出馬 海江田氏も助言
中国出身「歌舞伎町案内人」が出馬 海江田氏も助言
新宿の街角に毎朝6時半から立つ。生活は夜型から朝型に変えた。街頭演説にも区議ごとの「縄張り」があることを知って驚いた(撮影/編集部・野嶋剛)  中国から留学し、日本に暮らして27年。日本国籍を取った新宿の夜の案内人が統一地方選で区議に挑む。外国出身者票を開拓できるか。  中国・湖南省出身の李小牧さんは27年間、中国で生きた。次の27年間は日本で暮らした。そんな人生の節目に勝負に出た。4月26日投開票の新宿区議会議員選挙(定数38)に挑戦する。民主選挙が基本的にまだ実施されていない中国でも注目されている。 「私の『中国夢』を叶えます」  習近平(シーチンピン)国家主席の政策「中国夢」にひっかけ、中国版ツイッター「微博(ウェイボー)」でも3月1日に出馬を宣言した。リツイートにあたる「転発」は714万回という驚異的な数字を稼ぎ出した。李さんは言う。 「風俗の町で20 年間働き、本も書ける、店もやれる、選挙にも出られる。こんな日本の素晴らしさを中国の人々にも知ってもらえればうれしい」  若い頃はダンサーを目指した。父は文化大革命で逮捕された。職を転々とした末に1988年に来日。服飾を学びながら、歌舞伎町の路上で中国や台湾、香港からの観光客を飲食店や風俗店に案内するアルバイトを始めると、明るく物おじしない社交的な性格もあって多くの店から頼りにされ、本業になった。「歌舞伎町案内人」と自称し、体験をまとめた本も出版。地元・湖南料理の店をプロデュースして人気店にするなど、多彩な人生を送ってきた。  李さんは「ニューズウィーク日本版」にコラムを持つ。昨年2月、震災の取材で福島に行ったことで選挙に関心を抱く。「性事(せいじ)ではなく、政治もやりたい」。そうコラムで書くと、当時民主党代表だった海江田万里氏の事務所から電話が入った。中国語が得意な海江田氏は、李さんのコラムの読者だった。新宿が自身の選挙区でもある海江田氏は言う。 「もし選挙に出たいなら、まず日本人になってから、とアドバイスしました。彼が掲げる新宿の国際化や共生社会という政策は党の主張にも合致します」  昨年6月に国籍取得を申請し、今年2月4日に官報に記載され、ギリギリ立候補に間に合った。公認をもらう予定だった民主党は推薦にとどめた。李さんの過去の仕事や中国出身への懸念が党内で出たと見られる。はたから見るとはしごを外された感もあるが、李さんはあっけらかんとしている。 「公認をもらうか迷っていたぐらいですから気にしていません。私は自由人。『歌舞伎町公認候補』として日本の民主主義に関われることを楽しみます」 ※AERA 2015年3月30日号より抜粋
AERA 2015/04/01 16:00
朝活、パワーランチより「楽メシ」 仕事の成果より「ギョーザの流儀」
朝活、パワーランチより「楽メシ」 仕事の成果より「ギョーザの流儀」
8人で15人前のギョーザとおかずを食し、ひとり1500円で終了。山口さん(右)は「皆さん、お疲れさまでギョザいました」(撮影/編集部・齋藤麻紀子) 清水さん(左)の外食好きは健在で、平日のランチは毎日外食。料理人の馬場剛さんと(撮影/編集部・齋藤麻紀子) かつて、ビジネスパーソンの「食」は取引の手段だった。だが今は、しがらみから解放する「癒やしのツール」になっている。(編集部・齋藤麻紀子)  みんなでギョーザを食べ、眠くなったら帰る。なんとも原始的……いや、楽しそうな集まりが、ITの街・渋谷で行われている。ネットで呼びかけて、ふらっと「餃子の王将」に行く会。開催は月1、2回で、有志の集いだ。今回も、ITベンチャーのコンサルティングを行う山口豪志さん(31)がSNSで告知すると、開催2週間前には最大参加人数の8人が埋まった。  参加者の多くはITベンチャーの経営者やエンジニア。主に20代から30代で、参加者同士は「はじめまして」のケースもある。食事の場では、 「あの会社、社長が代わったみたいよ」 「いま、こんなサービス作っているんですよ」  と、同業者ならではの会話が飛び交うが、商談が始まったりすることは決してないという。  いま、ビジネスパーソンの「食」に変化の兆しが見える。「朝活」では朝食をとりながらビジネススキルを学び、ランチタイムに人脈作りをする「パワーランチ」ブームもあった。でも昨今の忙しいビジネスパーソンにとって、食はむしろリフレッシュの感覚。まさに「楽メシ」なのだ。 ●脱「パワーバランス」  先のギョーザの会も、大切にするのは、「ビジネスの成果」ではなく「ギョーザの流儀」だ。  ギョーザは、注文のたびに焼き方やタレを変え、アクセントをつける。焼き方は、薄焼き、普通焼き、よく焼き、両面焼きの4種類。山口さんはパリっと焼き上がる「よく焼き」を好むが、同席した男性は「薄焼き」のソフトな食感が好み。なんでも彼は、ギョーザの「のどごし」を重視しており、焼き面の柔らかさにこだわっているという。  しかしなぜ、ギョーザなのか。山口さんは「日頃の仕事には、パワーバランスがつきもの」と言う。ベンチャーは企業との取引や提携によって成長するが、相手企業の規模によってその出方を変えねばならない。「パワーバランス」と隣り合わせの日常の一方で、ギョーザは「たとえごちそうされても恩は着せられない」価格帯。ギョーザを前に、人は平等になれるのだ。 「ビジネスの関係性から解放され、ひとつの皿をみなでつつく。その時間がとても楽しいんです」(山口さん)  ちなみに、みんなで食を囲むことは、身体面にも良い影響がある。Jリーグの清水エスパルスなどで栄養指導をする公認スポーツ栄養士のこばたてるみさんは「会話を楽しみながら食事をすると、唾液の分泌もよく、またリラックスしているため消化吸収もよくなります」。  都内で働く清水さやかさんも会話を楽しむひとり。相手はお店で料理をするシェフだ。 「どうですか? 席、空いていますよ」  2年前、偶然店頭に立っていたシェフの誘いで、六本木のバル「東京バル Ajito」に入った。厨房の目の前に設置されたカウンターに座り、調理をするシェフと会話を楽しんだ。以降「カウンター食」にハマった。  もともと外食は大好き。20代のころは営業職で毎日残業続きだったが、「家と会社を往復するだけではイヤ」。たとえ帰りが深夜になっても、ラーメンや鍋などを楽しんだ。  外食好きが高じて、グルメサイト「ヒトサラ」を運営するUSENの広報に転職。自社情報をメディアに売り込む毎日ではつい近視眼的になりがちだが、シェフとの会話は新鮮で自分を解放してくれる。例えば、起業した女性シェフ、人生経験豊富な年上シェフなどの話からは、普段接することのない世界を垣間見ることができる。 ●「選食」から「戦食」に  生活にも変化が生まれた。シェフが貸してくれた蒸し器を使ってみたり、もらった調味料を料理に使うように。実は清水さん、あまり料理が得意ではなかったが「次にお店を訪問したときに、きちんと会話したい」という理由で、半ば強引に料理の楽しみを知った。 「食事を楽しむだけでなく、カウンターで会話をすることで、視野も広がっています」  ちなみに、外食続きだと栄養面が心配、という方も多いのでは。先のこばたさんは、外食続きのビジネスパーソンに「最低3種類」の法則を教えてくれた。ご飯やパンなどの「主食」に加え、肉や魚などの「主菜」、サラダなどの「副菜」の3種類。例えば牛丼なら、サラダとみそ汁などを加えてみる。 「ビジネスパーソンの食に必要なのは“選食”。外食続きでも、食べ合わせを考えてメニューを選べば“戦食”に変わります」  出張の多い佐々木久美子さん(42)にとっても、食事は「戦食」だ。4年前、地元・福岡でIT関連企業「グルーヴノーツ」を立ち上げ、現在は営業拠点の東京と行ったり来たりの生活を送る。その毎日のエネルギーになるのが「食」だが、その食べ方には性格が表れる。 ●広がった食への意識の幅  例えばおいしいと評判の寿司屋に入っても、食べるのは好物のイクラとウニばかり。「ここの赤身はオイシイよ」と言われても耳を貸さない。「おいしさがイクラ以下だったら、全体の満足度が下がる」と、好物にしか手を出さない。実は佐々木さん、元エンジニアで、「プログラミングをしていたら24時間経っていた」というほど、驚異の集中力をもつ。「目の前のネタに一球入魂」の姿勢は、この集中力の表れかもしれない。  おいしいものを見つけると、連続してそればかりを食べ続ける「マイブーム」に陥る。これまで、そのおいしさに触れていなかった人生を取り戻すかのように。焼き鳥、スリランカカレー、うどん……。ゆで卵がマイブームになったときは、「板東英二さんより私のほうが食べていた」。  ただ最近、食の役割が変わりつつあるという。現在、佐々木さんは、経営者の立場にある。ひとつの作業に没頭できたエンジニア時代と違い、幾重にも予定が続く一日にストレスを感じることもある。食は「ほっとできる」癒やしのツールに変わった。  忙しい毎日でも、自宅ではほぼ自分で料理を作る。疲れて帰った日ほどキッチンに立ち、料理ができたらダイニングテーブルをきれいに片づける。以前は、食事中のテーブルにパソコンや資料が置かれていることも多かったが、いまはテーブルをまっさらにし、そのうえで食事と向き合う。  エンジニアから経営者へ。仕事の幅に合わせるように、食に対する意識の幅も広がった。 「1日3回という短いサイクルで、ストレスを解消してくれる。それが食のありがたさです」 ※AERA 2015年4月6日号
AERA 2015/03/30 00:00
第7回 小泉今日子にとっての「結婚」と「離婚」
第7回 小泉今日子にとっての「結婚」と「離婚」
■永瀬正敏は「憧れの人」だった?  1993年、小泉今日子は雑誌「anan」で永瀬正敏と対談します。  小泉今日子はこのとき、「永瀬さんが言ってた、ジョン・カサヴェテスの映画観ました」と話を切り出しています。カサヴェテスは、ハリウッドの大手プロダクションと提携せずに映画を撮る、独立系作家の旗手です。1989年に亡くなったことで再評価が始まり、この対談が行われた当時、世界中の「映画通」の注目を集めていました。  こうしたカサヴェテス・ブームの、日本における担い手のひとりが川勝正幸です。川勝は「サブカル=おしゃれでちょっとマイナーなコンテンツ」全般にくわしく、小泉今日子のブレインでもありました。小泉今日子が「大人のアーティスト」に脱皮する過程で、彼の演じた役割は小さくありません(助川幸逸郎「バブル時代の小泉今日子は過剰に異常だったか(上)」dot.<ドット>朝日新聞出版 参照)。  永瀬正敏は、1987年、ジム・ジャームッシュ監督の『ミステリー・トレイン』に主演しています。ジャームッシュは、カサヴェテスに続く世代の「独立系作家のエース」です。以後、いくつもの海外作品に出演した永瀬は、世界中の監督やプロデューサーと交流しています。  1993年の小泉今日子は、川勝によって「通」の文化の世界に導かれつつありました。そういう彼女にとって、すでにひとかどの「国際映画人」である永瀬正敏は憧れだったはずです。小泉今日子の方からカサヴェテスの話を振ったのは、「その道の先達に仲間と認められたい」という願望の表れでしょう。「私ぐらいの年齢の人って、妙に好きですよ、永瀬さんのこと」と言ったりして、彼女はこの対談で、めずらしく舞いあがり気味です。  小泉今日子と永瀬正敏の交際が始まったのは、それからまもなくでした。2年後の1995年に結婚。披露宴の類いはいっさいやらず、永瀬正敏が撮った二人のプライヴェート写真の展示会が記念に開かれただけでした。展示会の入場料は500円で、集まった金額はすべて、その年に起こった阪神大震災のチャリティーに寄付されました(注1)。 ■『風花』で迎えた転機  永瀬正敏をパートナーに得たことで、小泉今日子の「映画人脈」は広がります。永瀬が車を運転し、ジム・ジャームッシュ、ジョニー・デップ、小泉今日子という4人組で、夜の東京を走ったりもしたようです(注2)。  女優として演じる役柄にも、結婚した後に変化がありました。  1998年の『踊る大捜査線 THE MOVIE』では、サイコパスの犯罪者・日向真奈美を「怪演」しています。翌年の『共犯者』でキャスティングされたのは、DV夫に虐待されるパート主婦からマフィアのボスの「共犯者」に転じる聡美です。  この当時、狂気や猟奇性といった「人間性のダークサイド」に、人々の関心が集まっていました。  東西冷戦が終わり、新時代への期待に世界が湧いたのが1990年代初頭です。しかし、「共産圏諸国=アメリカにとっての大敵」を失ったことは、ハリウッドの映画産業にとっては危機でした。「万人が納得する悪役」の設定が難しくなったからです。そこで駆り出されたのが、「幼少期のトラウマのために精神に異常をきたした猟奇殺人者」でした。こうした事情から、『羊たちの沈黙』や『ツイン・ピークス』といったサイコ・スリラーが1990年代に量産されます。その影響は、アメリカ以外の各国にも及びました。  そんなトレンドが生んだ「ダークなキャラクター」に、小泉今日子は立てつづけに挑みました。その姿に関心を持ったのが、「役者にとことん考えさせる」独自の演出で有名な相米慎二監督です。『踊る大捜査線 THE MOVIE』と『共犯者』での小泉今日子の演技について、相米監督はこう言っています。 <がんばってるんだけれども、映ると隙間があるんだよね。なんだか上手っていうよりなんだかまだ持て余してるっていうか。わかんないんだけれど、映っていない部分の方がおもしろいんじゃないかなって感じがしたね>(注3)  相米監督は、小泉今日子の中に「まだ演技の中で表現されていない鉱脈」を発見したのです。2001年に公開された次回作『風花』に、小泉今日子を主役として彼は起用します。  永瀬正敏のデビュー作『ションベン・ライダー』のメガフォンをとったのは、相米監督でした。演出家と若き俳優は、この映画の撮影を通じて深い信頼で結ばれます。二人はそれからずっと、精神的な親子も同然でした(注4)。相米監督が小泉今日子の演技に目をとめたのも、「息子の嫁」への興味がきっかけだった可能性はあります。 『風花』に参加したことは、小泉今日子の演技に画期的な変化をもたらしました。このときの彼女の役柄は、娘を実家に預けて風俗嬢をしているレモンという女性です。『風花』の撮影をふりかえって、小泉今日子はこう言っています。 <レモンの感情みたいなものを考えていたときに、それが自分のものなのかなんかよくわかんなくなっちゃうみたいな。軽く狂っちゃってるかも(笑)って気持ちを初めて感じました。(中略)あのとき私がこういう人生を選んだんじゃなかったら……とか、よく自分がわかんなくなっちゃう感じがしてきて。永瀬くんと結婚して、たまに彼がそういう顔をしているところを見たことがあって、何なのこの人って思ってたんだけど、それが初めて実感として理解できたって感じ>(注5)  ここで小泉今日子が述べている境地は、いわゆる「憑依状態」とは違うようです。別のインタビューで、彼女はそれをこんな風に説明しています。 <小泉:(『風花』や『空中庭園』―2006年公開―の撮影中は)自分が散らかった部屋になっちゃってるみたいな感じ。その中に気になるものが一個ある、そういう感じ。一個片付ければ済むものじゃなくて、気になるものの為に全部を片付けなくちゃいけない。すごく片付けたいんだけど、片付けたら気持ち悪そう。散らかっていることは気になるんだけど、その罪悪感みたいなものが、ちょっと心地よくなってくるみたいな。 ――罪悪感? 小泉:そう、その役が私の中の罪悪感みたいかも 。(中略) ――人によっては「役に入り込んだ」と言ったりするけど、そういうのともまた違う? 小泉:思い入れは勿論あるんですけど……なんか入り込むって気持ち良さそうでしょう? さっきも罪悪感っていう言い方をしたけど、爽快感はないから>(注6)  人は誰しも、他人には見せられない「醜い感情」を心に秘めています。嫉妬心、苛立ち、生理的な嫌悪……それらは、サイコ・スリラーのネタになるような「異常心理」ではありません。生きている限り抱えないわけにはいかず、その人の「核」と切り離させない――そんな、胸の底深く隠された「闇」の領域です。  小泉今日子が『風花』で到達したのは、演者自身の「闇」を芝居に託して表現する境地でした。「役が私の中の罪悪感みたい」という言葉は、そのことを示しています。  相米慎二が小泉今日子に感じた「持て余してる部分」とは、おそらくこの「闇」のことです。「異常心理」を演じる彼女を見たからこそ、そこに投入されていない「闇」に気づいたのかもしれません。  人間は、自分の「核」から目を背けたままで幸せになることは不可能です。時には「闇」を見すえる必要があります。とはいえ、そうした部分は存在を認めることだけでも楽ではありません。  このとき、映画や小説といったフィクションが役に立ちます。つくり手は、虚構の中におのれの「闇」を注ぎこむ。見る側は、作品に投入された「闇」を眺めてみずからのそれに思いをはせる――そういうキャッチボールが、すぐれたフィクションでは起こります。  小泉今日子はレモンを演じることで、「闇」を作品に結びつける一線級の表現者になりました。そして、そのことの意味を彼女がすぐ了解できたのは、同じ家にいる「永瀬くん」を見ていたからでした。 ■別れた理由  9回目の結婚記念日当日、小泉今日子と永瀬正敏は離婚届を出しました。  小泉今日子は、結婚と同時に引退するつもりだったようです(それを止めたのは永瀬正敏でした)。彼女の中には「日本の女はかくあるべし」というイメージがあったので、「妻」となってからは仕事と板ばさみで辛かったとも述べています(注7)。入籍後、1年間ほど活動をセーブしていた期間もありました(注8)。  それでも小泉今日子は、永瀬正敏と並走しながら俳優としてステージを上げていきました。当初は永瀬にしか見えていなかった世界が、彼女の視野にも入りはじめます。  夫婦で働いてどちらも有能なのに、夫は迷いなく職業に没頭、自分だけが「妻であること」と「仕事」の板ばさみになる――多くの女性が、この悩みに直面します。小泉今日子の場合、「映画人」としてパワー・アップするにつれそれが深刻化したはずです。彼女と永瀬のケースでは、そこに二人の資質の問題が加わります。  小泉今日子は「理想がなかったからここまでやって来れた。理想とかあったらそこで燃えつきちゃうし」と語っています(注9)。「遠大な目標」にこだわり過ぎず、「お客の目から見たちょうどよいかっこよさ」を探れるのが、小泉今日子の特徴です(助川幸逸郎「もしもなんてったってアイドルを松田聖子が歌っていたら(中)」dot.<ドット>朝日新聞出版 参照)。苦心して「憧れのあの歌手と同じキイの高音」を出しても、コンサートが盛りあがらなければ何にもなりません。そういう「観客の求めるものと別の方向に突進する悲劇」に陥らないところが、小泉今日子の「強み」です。  これに対し永瀬正敏は、理想をめざしてストイックに役づくりする俳優の典型です。離婚後に小泉今日子から「結婚したての頃なんか、役そのままで帰ってきて、そのたびにいろんな男の人が帰ってくるから大変だったわよ」と叱られたとか。永瀬は「まったく意識していませんでした、すみません」と応じたそうです(注10)。凄まじい集中力で役になりきる反面、目標を追うあまり見えなくなるものもあるタイプと言えます。 「自分とまったく異なる方式で生きているライバル」が身近にいる――これは、かなりやっかいな状況です。羨望、不安、懐疑、その他もろもろの「闇」の感情が湧いてきます。自分の生き方への疑問符を突きつけられた気になるからです。  永瀬正敏との結婚生活ついて、小泉今日子はこう語っています。 <(永瀬は)自ら進んでカメラに魂を差し出している。そこまでやれるのはすごいことだけれど、私自身は決してそんな状態にはならないから、心のどこかでやっかみや憧れやその不器用さに対しての警告や不安もあって、「バカじゃないの?」と思ったりもしました。だから、一緒に住んでいる頃は大変だった。よく心配もしましたね>(注11) <(永瀬と別れたのは)派手な愛憎劇があったわけじゃなくて、背負っているものに対して、一緒にいることがきつくなってしまったという感じだったから>(注12)  小泉今日子にとって永瀬正敏は、ある時期から「やっかいなライバル」になっていたことがうかがえます。おそらくそんな風に苦しんでいたのは、女性であり、他人の目線を想像する力に富んだ小泉今日子の側だけでしょう。「没入型の男性」である永瀬正敏は、自分と小泉今日子の違いなど気にかけず、まっすぐ演技に向かっていたはずです。  小泉今日子が「映画人」としての才能を開花させるのに、「永瀬くん」が側にいることは不可欠でした。皮肉なことに、そのことが彼女にとっての「永瀬くん」を「憧れ」ではなく「ライバル」という存在に変化させ、二人の「同じ屋根の下に居る幸せ」は終わったのです。 ■人生の「正解」はひとつではない  2011年、小泉今日子と永瀬正敏は、映画「毎日かあさん」で共演します。離婚した元夫婦が「離婚した元夫婦」の役を演じた事実は話題を呼びました。  撮影の間、二人は「以心伝心」で、作品づくりについてぴったり意見が一致していたそうです(注13)。タイプは違っていても、熟練の境地に達した俳優同士、通いあうものがあったのでしょう。  小泉今日子は、アイドルのイメージを完全に断ち切る必要のあった29歳で、永瀬正敏と結婚しました。女優としての個性を確立したところで独身に戻り、20歳齢下の若者と恋愛もしています。夫婦ではなくなった永瀬とも、「映画人」としては理解しあっています。  こうして見ると、「さすが小泉今日子。出会い方も別れ方も絶妙」と言いたくなってきます。  しかし、ある人がたどった行路がベストかどうか、本当のところはわかりません。小泉今日子は言っています。 <ただ、いま、やり残したことあるかなあっていうと、それが出てきますね。子ども生まなかったな、子ども育てなかったなって>(注14)  永瀬正敏に仕事をやめろと言われていたら。相米慎二に見こまれなかったなら。そしてあそこまで演技の才能がなかったら……。 「才能があること」や「幸運に恵まれること」は、短いスパンで見ればもちろん「いいこと」です。ただし、それがその人にとってどういう意味を持つのかは、生きている限り揺れつづけます。  近年の小泉今日子の静かな輝きは、そのことを体の奥深くで知っている人のもののように私には映ります。 ※助川幸逸郎氏の連載「小泉今日子になる方法」をまとめた『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』(朝日新書)が発売されました 注1 「永瀬正敏ロング・インタビュー」(「アクターズ・ファイル永瀬正敏」キネマ旬報社 2014) 注2 「インタビュー小泉今日子」(「アクターズ・ファイル永瀬正敏」キネマ旬報社 2014) 注3 「特別対談 相米慎二×小泉今日子 「風花」」(「キネマ旬報 2001年2月下旬決算特別号」キネマ旬報社) 注4 注1に同じ 注5 注3に同じ 注6 「インタビュー2 女優論」(「Switch 2006年6月号」 スイッチ・パブリッシング) 注7 「小泉今日子ロングインタビュー 目指すのは中年の星!」(「AERA 2008年9月22日号」朝日新聞出版) 注8 「阿川佐和子のあの人に会いたい 小泉今日子」(「週刊文春 2001年1月25日号」文藝春秋) 注9 「ボクらの時代」(2014年6月8日放映 フジTV) 注10 注1に同じ 注11 注2に同じ 注12 「インタビュー1 今日」(「Switch 2006年6月号」 スイッチ・パブリッシング) 注13 注1に同じ 注14 注9に同じ
2015/03/26 11:30
早大卒・朝井リョウ「入試は腹痛との戦いだった」
早大卒・朝井リョウ「入試は腹痛との戦いだった」
 入試も終わり入学シーズンを迎える今、『桐島、部活やめるってよ』で早稲田大学在学中に小説家デビューした朝井リョウ氏が、学生時代を振り返った。 *  *  *  私はおなかが弱いんですよ。緊張するとダメ。普通の人が便意の音階を「ド」からドレミファと上がっていくとすると、私はいきなり「シ」から始まる。だから入試は腹痛との闘いでもありました。  ご飯を食べると、出る、わけじゃないですか。じゃあ、食べなければいいだろう、ということで、入試の当日は、朝ご飯を抜いたんです。それが予想外の結果に。試験で興奮してアドレナリンが出たからか、3教科目の日本史で動けなくなっちゃった。空腹が限界を超えて。問題文なんか読める状態じゃない。ほとんど気を失ってた(笑)。  でも、私が志望した文化構想学部は、センター試験の数学を利用した併願ができた。国立文系も視野に入れていたので結局、センター数学に救われました。  学部では文芸・ジャーナリズム論系で学びました。大学のパンフレットで堀江敏幸先生(教授)の名前を見つけてから、絶対ここにいくぞと。センター試験の過去問題で読んだ先生の小説に引き込まれた。  とにかく変わった人ばかりいましたね、大学は。小説書いたり映画撮ったり。創作が授業の提出物として認められる空間でした。  ダンスサークルで活動したり、バイトしたりもしていましたが、デビュー作の『桐島、部活やめるってよ』をはじめ、学生のうちにとにかく5冊書くのが目標。そんなことやった人はいないだろうという単純な動機だったんですが、結構しんどかった。後から乙一さんがもっと書いていらしたことを知るんですが(笑)。  先生もおもしろい人が多かった。中国語を教えるクラス担任も自由でチャレンジングな先生で。 「私のクラスは通常の4倍のスピードで進むので時間は4分の1。その教え方で通常クラスとテストの点にどう差が出るかをみたい」  基礎演習の先生は、あちこち学生を連れていく。 「対馬に行きたい人は、○月○日に博多に集合」  まさかの博多集合。現地で泊まるのは廃園になった幼稚園。近所を軽トラで回って、ふとんを貸してもらうのが初日の仕事でした。  夜は島の人がなぜかみんな飲みに来る。島のお祭りの研究という目的があるので、踊りを教えてもらうんですけど、学生はすぐふざけるからすごく怒られたりして。先生はお酒が強くて料理がうまかった。 「大人の世界って、大したことない。結構くだらない」と大学で思えたのはよかった。何も知らずにいきなり就活で、立派なことを言う“大人”と対面すると緊張してしまう。大人を圧倒的な存在と感じていた高校生と社会人との間にある、グラデーションの時代。好きな人と、モノとを自由に選択できて、自由に迷えた、有限の時間でした。 ※週刊朝日 2015年3月27日号
週刊朝日 2015/03/22 07:00
洋楽カラオケも駆使 TOEIC200点台→750点のテク
洋楽カラオケも駆使 TOEIC200点台→750点のテク
前田洋一郎さんが作っていた単語カード。「“納期”を決めて逆算しないと上達しない」という上司の言葉に影響されて、30歳を前に一念発起した(写真:本人提供) 愛読の洋書(撮影/編集部・金城珠代)  転職までの短期間に。急な異動…。英語が必要になるシチュエーションには大抵、時間の余裕がない。でも、恐れるなかれ。やるべきことが目の前に迫っていればいるほど成長できると、経験者は口をそろえる。  どうやって隙間時間を使いこなし、やる気を維持するかが課題だ。入社時に200点台だったTOEICを約1年で750点まで上げ、5年間の米ロサンゼルス駐在を実現した富士ゼロックスの前田洋一郎さん(44)は、「モチベーションは下がるものだ」という前提で勉強を始めた。  真っ先に始めたのが、単語学習だった。『TOEICテスト900点 TOEFLテスト250点への王道』(杉村太郎著)という本の影響を受けた、ゲーム感覚で単語を覚えるという手法だ。名刺より少し大きなサイズの紙で自作の単語カードを作り、1枚につき1.5秒でストップウォッチをセット。朝と夜の2回戦で、クリアできたものは「◎」の箱へ。わからなかったものはカードケースに入れて一緒に通勤する。そして、電車内や仕事中のわずかな待ち時間に取り出して何度も復習した。  さらに、スポーツ好きの前田さんは、電車内で英字新聞「Japan Times」のスポーツニュースを読むことを日課にした。既に結果を知っていて、専門用語が読解を助けてくれるため、英語独特の文章の流れに慣れることができ、文法の勉強にもなる。  特に効果的だったのは、六本木の「洋楽カラオケ」に通ったことだと振り返る。現在は閉店してしまったが、欧米から日本に駐在で来ている外国人が集まるカラオケラウンジで、出会った人たちと歌ったり話したり、次に会う約束をしたりと「生きた英語」に触れた。そのたびに、勉強の先にどんな楽しいことがあるかを確認できたという。 「駐在先の上司にも『ほしいのは通訳じゃなく、ちゃんとコミュニケーションができて、新しい案件を取れる人物だ』と言われました。英語は完璧じゃなくていいと思います」 ※AERA  2015年3月2日号より抜粋
AERA 2015/03/06 16:00
実は怖い「鼻づまり」 子どもの発達の妨げにも
実は怖い「鼻づまり」 子どもの発達の妨げにも
大人も子どもも、鼻づまりに悩む現代人は多い。解消すれば、睡眠や暮らしの質が向上する可能性も/「鼻のクリニック東京」で(撮影/村上宗一郎)  鼻づまりは誰にも身近だが、睡眠を妨げるなど、多くの危険をはらんでいる。とりわけ子どもの場合、成長を阻害する恐れもあるという。  友香ちゃん(仮名、6歳)の勉強スペースは、キッチンとリビングの間。母親の順子さん(仮名)の目の届く位置にある。友香ちゃんは、きびきびと図形パズルを組み立てていた。 「お母さん、ここ押さえててね」 「すごいね、さっきはできなかったのができたね」  母親に褒められると、得意げに次の問題に取りかかる。今でこそ何にでも積極的な友香ちゃんだが、ほんの数カ月前までまったく違う印象の女の子だったという。順子さんが言う。 「走りまわったりせず、いつも私のそばから離れない、本当におとなしい娘でした」  きっかけは、3カ月ほど前に受けた鼻の手術だ。実は、友香ちゃんは、夜眠るのにも苦労する重度の“鼻づまり”だった。  順子さんが娘の鼻の異常に気づいたのは、生後間もなくのこと。母体の免疫が残っているはずなのに、風邪をひいたのか、すでに青い鼻水でつまっているように見えた。乳児期は常に眠りが浅く、まとまって数時間と休めた記憶がない。  慢性的な鼻づまりのため3、4歳になるまで耳鼻科や小児科に通ったが、一向に治らなかった。夫と相談して専門医を訪れ、重度の鼻炎とアデノイド肥大があると知り、手術を決断した。  アデノイド肥大とは子どもに特有の疾患で、上咽頭のリンパ組織が肥大し、鼻づまりやいびき、睡眠時無呼吸症候群(SAS)などを引き起こすことで知られている。当時友香ちゃんは5歳。こんな小さな体にメスを入れるのか、と胸は痛んだが、医師への信頼と希望が勝った。 「術後、『お母さん、鼻がスースーするね』と言ったのを、今でも覚えています。以来、驚くほど活発になって、前よりよほど手がかかるようになりましたが、生き生きと成長していく姿をうれしく思っています」  執刀した鼻のクリニック東京(東京都中央区)の黄川田(きかわだ)徹医師に話を聞いた。 「鼻の粘膜は日中に比べ夜間に腫れる傾向があり、腫れると空気の通り道が狭くなるため、鼻呼吸がしづらくなる。本人も気づかないうちに、睡眠時に鼻がつまっている場合もあります」  睡眠時は鼻呼吸が理想だ。だが、鼻がつまると、効率の悪い口呼吸に頼ることになる。慢性的な寝不足に悩んだり、SASで来院するケースもある。睡眠の質が下がると、大人でも仕事の効率が下がる、疲れが取れないなどの悪影響が出る。発育途上の子どもの睡眠が阻害されると、運動能力や知能の発達を妨げてしまう恐れもあるという。 ※AERA  2015年2月23日号より抜粋
AERA 2015/02/28 00:00
第6回 「あなたに会えてよかった」の「あなた」は誰か
第6回 「あなたに会えてよかった」の「あなた」は誰か
■最初は作詞を嫌がっていた  1991年、小泉今日子は「あなたに会えてよかった」をリリースしました。この曲はミリオンセラーとなり、彼女のシングル盤の売り上げ記録を更新します。みずから手がけた歌詞は、日本レコード大賞作詩賞に輝きました。  自分で歌詞を書くアイドルは、そのころ珍しくありませんでした。そのなかで、メジャーな作詞賞を受けたのは、小泉今日子ただ一人です。  よく知られているとおり、小泉今日子は2006年から、読売新聞の書評委員をつとめています。作詞で賞を獲り、大新聞に定期的に寄稿する。「作家」としてこれほど実績のある「アイドル出身者」は稀です。  小泉今日子は、もともとは「書いたものを公表すること」に積極的でなかったようです。彼女が最初に歌詞を書いたのは、1985年に発売されたアルバム「Flapper」に収められた「Someday」でした。レコーディングを担当していた田村充義が、このときの事情を回想しています。 <作詞も「せっかくだから小泉さん書いてみない?」って振ってみたら不承、不承(笑)「こんなので」って書いて渡してくれて。(中略)あまり自分でやる気はなかったようですが、僕は当時、彼女を見ていて、話が上手い人だと思ったんです。TBSの『ザ・ベストテン』で彼女が紹介した本がベストセラーになったということがあったり、この本やこのドラマのここが面白かったという説明をすごく的確に言う人なので、「歌詞書けるんじゃないかな?」って思って>(注1)  ピアノを弾くときには、できれば他人に聴いてもらいたいと願い、文章を書いたら、なるべく広く読まれたいと望む――これが「自然な心の働き」です。自分に恵まれた表現能力は、可能な限り使いたくなるのが「道理」のはずです。小泉今日子は、傑出した「言葉をあやつる力」を持ちながら、そこに背をむけていました。  彼女と9年間結婚していた永瀬正敏は、「あの人はああ見えてすごくシャイな人」と言っています(注2)。小泉今日子当人は、自分の特徴についてこう語っています。 <……世間のみなさんは、私はトンがったことを発信するアイドルだと思っただろうし、実際そう見えていたと思います。でも、本当の私はそういうことを自発的に発信するタイプではないんです。子どものころから内向的で、家にいるのが好きなタイプ。部屋で一人で本を読んだりレコードを聴いたりマンガを読んだり。(中略)私に何か才能があるとすれば、人が提案したものを吸収して「自分らしい形」にすることなんです>(注3)  詞を書くことは、一般的に考えるなら「人が提案したものを吸収して『自分らしい形』にすること」ではありません。それよりずっとストレートな「自己表現」です。このことと、小泉今日子が作詞に及び腰だった理由はおそらく関連しています。「あからさまに自分の世界を語ること」は、彼女にとって抵抗があったのです。 ■「文学系アイドル」がいた時代  多くの80年代の女性アイドルは、「歌と演技だけの人間と思われたくない」という願望をギラギラさせていました(詳しくは「もしも「なんてったってアイドル」を松田聖子が歌っていたら(上)」(dot.<ドット>朝日新聞出版 参照)。彼女たちは、文才や教養を誇示して「ただの芸能人」でないことを印象づけようと試みました。演技や歌といった「芸能人としてのスペック」に収まらない「特別な私」――それを証明しようと必死になっていたのです。  小泉今日子の「夜明けのMEW」(1986年リリース)のアレンジを担当した武部聡志は、こんなことを言っています。 <(「夜明けのMEW」は)秋元康さんの詞だし、(斉藤)由貴ちゃんや薬師丸(ひろ子)さんみたいな「文学系アイドル」ではないから、ドラムやシンセの音色もちょっと派手めに作ってありますね>(注4) 「文学系アイドル」という表現に、この時代の「『特別な私』を見せつけたがる芸能人」のありようが集約されています。  斉藤由貴は1985年、男性向けアイドル雑誌で「ルキノ・ヴィスコンティの映画と三島由紀夫の小説が好き」と語りました(注5)。今から見ると場違いな「教養自慢」に映りますが、この時代にはこうした言動が受けいれられていました。ポエムや小説をあつめた単行本も、彼女は何冊か上梓しています。パーソナリティをつとめていたラジオ番組にも、自作ポエムを朗読するコーナーがありました。  薬師丸ひろ子は、スケジュールの合間を縫って受験勉強に励み、1983年に玉川大学に入学しました。当時は18歳人口が多く、志願者全員が入学できる「Fランク大学」は存在しません。芸能人が4年制大学に進学することは、それだけで「快挙」でした。  1年間留年したものの、薬師丸ひろ子は大学を卒業し、ハードな芸能活動と勉学を両立させています。この実績によって、「高卒がほとんどの、ふつうのアイドルとは格が違うイメージ」を彼女は獲得しました。  こうした「文学系アイドルの時代」を象徴するメディアが、「月刊カドカワ」です。1998年に終刊したこの雑誌は、「総合文芸誌」の看板を掲げていました。にもかかわらず、特集ページでは歌手を取りあげ、小泉今日子も二度フィーチャーされています。このうち、1990年2月号の特集には、ロング・インタビューや「読書日記」、当人自身による全アルバム解説などが載っています。  このときの「読書日記」の前文に、小泉今日子が「芸能界一の読書家」であるというフレーズがあります。編集部には、彼女の「教養」をアピールする意図があったのでしょう。しかし、小泉今日子がここで触れている書物は、ジュニア向けファンタジーや少女漫画が中心です。文芸雑誌の読者が、「こんなハイブロウな本も読むんだ。すごい!」と感心するラインナップではありません。  この号の目次には、五木寛之、林真理子、山田詠美、村上龍といった、現在でも人気のある作家の名前が見えます。その傍らに、斉藤由貴、尾崎豊、黒木瞳、鈴木保奈美といった芸能人の創作が並んでいます。小泉今日子が二度目に特集された1993年2月号にも、斉藤由貴、渡辺満里奈、荻野目洋子、三上博史などが寄稿しています。    武部の言葉にもあるとおり、「月刊カドカワ」でポエムや小説を書いていたタレントと、小泉今日子は「別のタイプ」と見られていました。「読書日記」からも、彼女が「文学系アイドル」と一線を画していたことは伝わってきます。  この「文学系ではない」という点では、80年代アイドルの二大巨頭だった松田聖子と中森明菜も同じです。  ただし、松田聖子は華麗な男性遍歴で知られています。子どもの頃から憧れだったという郷ひろみをはじめ、映画で共演した神田正輝、年下の外国人、歯科医師――彼女のお相手は、女性が「こんな人と恋愛をしてみたい」と願うタイプの総カタログです。そのことが「女の子が欲しがるものはすべて手に入れるイメージ」を生み、同性の共感を呼ぶポイントになっています。  中森明菜は、1989年、交際相手だった近藤真彦の自宅で自殺未遂をしました。以後、恋愛や事務所の移籍をめぐってトラブルがつづき、精神的な不調を伝えられるようになります。このことは、多くの男性の「自分が応援してあげないと」という気持ちをかき立て、新しいファンの獲得につながりました。  松田聖子も中森明菜も、「歌手としてのキャラクター」と「どういう恋愛をしているか」を分けて語ることはできません。「芸能人としてのスペック」に還元されない「ドラマチックな私生活」が、彼女たちのカリスマを支えています。  アイドル時代の小泉今日子にも、恋愛の噂は当然ありました。何回かは、写真週刊誌の標的にもされています。しかし、そうした恋愛騒動によって、彼女の歌う曲や演じる役柄は左右されませんでした。交際相手が、小泉今日子の「芸能人としてのイメージ」に影響したのは、中年に達してからです。40歳になった2006年、20歳若い亀梨和也とつきあっていることが報じられました。その結果、「美しく齢を重ねている人」として、いっそう広く認められるようになりました。 ■「マウンティング」しないから「アンチ」が少ない 「文学系アイドル」は、教養や文才を誇示することで、「芸能人としてのスペック」に収まらない「私」をアピールします。松田聖子や中森明菜も、仕事を離れた「私」の姿でファンを引きつけました。  アイドル時代の小泉今日子は対照的です。歌詞を書いて「自己表現」することには及び腰、教養自慢もせず、恋愛騒ぎも仕事に反映させない――芸能活動を離れた「私」が表に出ることを、避けていたようにも映ります。    先に触れた「月刊カドカワ」1990年10月号の小泉今日子特集に、精神科医の香山リカは書いています。 <記号で表現される――つまり、メディアを通して私たちの目に触れる――キョンキョンは、偉大な精神分析家といわれるJ・ラカンの説を待つまでもなく、“記号内容の上を絶えず横すべりしている”。  キョンキョンの歌、CM、衣装、スキャンダル。  それらは凝視されればされるほど別の記号にするっと逃げ込もうとするばかりで、その記号が意味しようとするキョンキョンを読み取ることなんてできた試しはない。 (中略)ウルトラマリンの深い淵に沈むキョンキョンの真実は、あくまで縁からそっとのぞくことしか許してくれないみたい>(注6)  小泉今日子が、きわだって「『私』を見せないタイプ」と思われていたことがわかります。 最初は◯◯することは恥ずかしかったけど、やっていくうちにそうではなくなった――彼女のインタビューを見ると、この種の言いまわしがたびたび現れます。 <この年(1985年)のツアー「Kyon2 panic85」が始まるまで、ステージに立ちたくないとか家に帰りたいって思ったりしてたんだけど、これからそういうことがなくなった気がする>(注7) <歌詞を小泉今日子で書き始めたのもこれ(1987年のアルバム「Phantasien」)が最初(それまでは「美夏夜」というペンネームを使っていた)。なれてきて、恥ずかしくなくなってきて>(注8) <長い時間があったから、少しずつ恥ずかしくないことも増えているという感覚があるのね。(中略)文章を書くこともずっと恥ずかしかったけど、たとえば書評委員会も二年で辞めていたら、やっぱり中途半端で恥ずかしいまま終わっていた気がする>(注9)  彼女は、人前に心身を投げ出す必要にせまられると、まず「恥ずかしい」と感じるようです。「シャイ」で「私」を見せたがらない人間として、きわめて自然な反応といえます。   そうした「恥ずかしい」ことから逃げ出さず、「私」をさらすのとは別のアプローチで取り組もうとするのが、小泉今日子の流儀に見えます。他人から吸収したものを「自分らしい」形にして発信する――この「得意技」で勝負できる道を探すわけです。ライヴも作詞も書評も「恥ずかしくなくなった」のは、おそらくそれに成功したからです。  小泉今日子が手がけた歌詞を見ると、「自分以外の何か」の「尊さ」や「儚さ」が簡素な言葉で綴られているものが目につきます(彼女が愛読している大島弓子の漫画を思わせます)。女性歌手の自作歌詞は、「あなたをこんなに愛してる『私』」を声高に主張するものになりがちです。そういう類いの作品と、小泉今日子が描く世界は異なります。  彼女の著す書評にも、難解な用語や奇をてらった論法は現れません。誰にでも書けそうに見える平易な語り口で、対象としている本のすばらしさを読者の心に沁みこませます。  作詞でも書評でも、「私」をさらすのとは違うやり方で、小泉今日子は成果をあげています。「シャイ」な自分を変えることなく、体も言葉も公共の場に露出させる――そんな矛盾する営みを、30年間、彼女は続けてきました。  したがって小泉今日子は、「マウンティング=『私の方が上なのよ』アピール」とは無縁です(「マウンティング」イコール「私」自慢なわけですから当然です)。  男性にくらべ、女性が複雑なやり方で「マウンティング」しあうことは、しばしば話題になります(注10)。男性の「偉さ」を決める要因は、年収や職業など、いくつかに限られます。これに対し、女性同士の「どっちが上」を決める尺度はさまざまです。40歳で「独身・子どもなし・年収1000万円」と「専業主婦・子ども一人・夫の年収500万円」――両方に「私の方がエライ」と主張する言い分があります。  ほとんどの女性が込みいった「マウンティング」合戦に巻きこまれ、疲弊しているようです。このため、自分から「マウンティング」をしないタイプの女子は、同性から全方位的に好かれると、様々な文献で指摘されています。  小泉今日子は昔から、女性の「アンチ」がほとんどいませんでした。松田聖子や中森明菜とくらべても、この点は際立っています。  芸能人が書評のような「文化系活動」に乗り出すと、「無知なくせに見栄を張って」と批判を浴びせられたりします。そういう声も、小泉今日子に限っては聞こえてきません。 「私」をさらすことが苦手だから「マウンティング」しない――この性質が、小泉今日子の「敵の少なさ」の大きな理由だといえます。 「文学系アイドル」は、文才や教養を示すことで「マウンティング」しようとしていた人たちです。彼女たちがスキャンダルを起こしたときに、同性が向けた目には厳しいものがありました。このことも、小泉今日子の「嫌われない理由」を、反対側から物語っています。 ■バブルへの哀悼歌  バブルに浮かれていた世相に対し、小泉今日子が冷静なスタンスをたもっていたことを、以前述べました(「バブル時代の小泉今日子は過剰に異常だったのか」dot.<ドット>朝日新聞出版参照)。加えて、現在でも語り草になるような「弾けた活動」を彼女がしていたのは、1985年と1986年のほぼ2年間です(「何てったってアイドル」のリリースが1985年、「人拓」で話題を集めた写真集『小泉記念艦』の発売が1986年)。1987年からは、みずからアルバムのプロデュースを始めるなど、「大人の歌手」への路線変更が始まります。  バブル景気は1990年から終息に向かい、1991年に潰えました。小泉今日子は、周囲がまだ好況に踊っていた段階で、「次」へのステップを踏み出していたことになります。  彼女は昨年、テレビのトーク番組で「バブルの頃は、いくらでもCMの話が来た。毎日CM撮ってた。それが私のバブル」と語っています(注11)。  自分は時流に身をまかせていなくとも、異様な熱気がバブル期に立ちこめていたことは、彼女も肌で感じたはずです。そんな「狂乱の季節」が幕を降ろそうとするころに、「あなたに会えてよかった」の歌詞は書かれました。「作家」としての小泉今日子は、「失われゆくもの」に人一倍敏感なのが特徴です(『原宿百景』という「死んでしまった知人の思い出話」ばかりが並ぶエッセイ本も出しています)。一つの時代が去りつつあることへの感慨が、この曲の歌詞を綴る彼女の胸中にあったのではないかと、私は想像しています。 「あなたに会えてよかった」の「あなた」は、小泉今日子が当時つきあっていた恋人のことだ、という噂も耳にします。あそこで語りかけられている「あなた」に特定のモデルがいた可能性は、たしかに否定できません。  ただし、あの歌が個人的な思いだけを表したものだったら、あそこまでヒットしなかったように思えます。  私個人は、バブルの恩恵にはほとんど浴していません。それでも、無限に日本が豊かになっていけると、誰もが本気で信じていた様子は印象に残っています。そんな、夢のような時代に別れを告げる歌として、「あなたに会えてよかった」は人びとの心をとらえたのではないでしょうか。  流行に棹さしていた「文学系アイドル」たちは、1991年の段階では方向転換していません。特定の状況に深く加担してしまうと、そこを離れるのはどうしても難しくなります。トレンドを一歩引いて眺めていた小泉今日子だからこそ、「バブルへの哀悼歌」をいち早く書くことができたのです。 ※助川幸逸郎氏の連載「小泉今日子になる方法」をまとめた『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』(朝日新書)が発売されました 注1 田村充義インタビュー(『80年代アイドルカルチャーガイド』洋泉社 2013) 注2 永瀬正敏ロング・インタビュー(『アクターズ・ファイル永瀬正敏』キネマ旬報社 2014) 注3 小泉今日子インタビュー(川勝正幸『ポップ中毒者の手記(約10年分)』河出文庫 2013) 注4 武部聡志インタビュー(『80年代アイドルカルチャーガイド』洋泉社 2013) 注5 巻頭大特集・斉藤由貴(『BOM』1985年9月号 学習研究社) 注6 香山リカ「キョンキョンのポワン・ド・キャピトン」(『月刊カドカワ』1990年10月号 角川書店) 注7 小泉今日子「本人自身によるヒストリー&全アルバム解説」(『月刊カドカワ』1990年10月号 角川書店) 注8 注7に同じ 注9 小泉今日子「独りであることの美しさ」(『Swich』2008年8月号 スイッチ・パブリッシング) 注10 瀧波ユカリ・犬山紙子『女は笑顔で殴りあう・マウンティング女子の実態』(筑摩書房 2014) 注11 『ボクらの時代』2014年6月1日放送
2015/02/25 11:30
平川克美「別に下の世話をしてもほめられない」介護語る
平川克美「別に下の世話をしてもほめられない」介護語る
会場は定員50人を超えるほど大盛況だった。トークは白熱し、22時近くに終了した(撮影/写真部・大嶋千尋)  本誌連載でおなじみの漫画家・岡野雄一さんと、文筆家の平川克美さん。そんななか、ふたりのトークライブが2月2日夜8時から、東京・下北沢の書店「B&B」で実現した。介護の経験を経て年齢を重ねてきたからこそ見えてきたもの、得たものを語った。 *  *  * 岡野さん(以下、岡):母に「胃ろう」の選択をしてから亡くなるまでの1年半で、死に対する覚悟ができました。それは自分に対しての覚悟でもある。生きづらい世の中になると「もう死んでもいいかな」と(笑)。今のは冗談ですけど(笑)。 平川さん(以下、平):介護は一種の儀式。自分には子どもがいて、親にもまた親がいる。先祖代々続く、長い時間の帯があり、そのなかで自分が生きている。生きられる時間はだいたい決まっていて、帯のなかにある役割を果たしているだけなんだと思うようになりました。じつは50歳ぐらいのときに、周囲で介護が始まっている人を見て、「自分も介護が始まったら面倒くさいことになる」と思っていました。「あんなことやるのかよ」と鬱陶(うっとう)しいとまで思っていた。母が亡くなり父がひとりになって、放っておけないと思ったときに、気合を入れました。山に登る感覚です。やってみたら当初考えていたものと違う世界がそこにあって、大変だったんですが、「小さいことのほうが大きいことよりも大事だ」ということに気がつきました。作家の関川夏央さんが僕の本の書評を書いてくれた。そのなかで介護を「些事(さじ)」と表現した。「大事よりも些事が大事」と。世界の出来事とはまったく関係なく、どんなことがあっても朝飯は作らないといけない。介護の真っ最中に東日本大震災が起こり、マスコミから「震災についてどう思うか」という取材も入った。「今日は飯を作らないといけないから」と言って断った。大きな仕事が入っても、小さなことを優先しなければならない。それが介護。 岡:認知症介護の「些事」の一方で、今の世界、日本を取り巻く環境も妙な状況になっています。小さいことは大きいことにどう関係するんでしょうか。 平:それはとても難しい質問ですね。ただひとつ言えることは、小さなこと、あるいは周りにいる人にやさしくできない人が、世界の人たちに対してもやさしくできるはずがない。言葉でいくら、「ご家族の悲しみは察するに余りある」と言っても、本当にその人が目の前に現れたとき、寄り添うことができなければ空疎な言葉でしかない。言葉では何でも言えるんですよ。目の前を歩いている人がつまずいて転んだら手を差し伸べることができるかどうか。そういうことの積み重ねが世界をつくっているんだと思うんです。 岡:その一方でネット上には、「手を差し伸べる」ような映像も出回っています。 平:そこもアンビバレント(相反する感情が同時に存在する状態)なんだけど、「些事」は人に見せるものではないし、介護の体験を言うのも書くことも本当は恥ずかしい話であって、本来孤独な作業なんです。介護の本も正直書きにくいときもありました。岡野さんも書いて有名になっちゃってさ(笑)。 岡:ちょっと上から目線ですね(笑)。 平:ジェラシーです(笑)。 岡:冗談です(笑)。 平:介護の行為自体は誰も見てくれない孤独な作業なんです。別に下の世話をしてもほめてくれるわけでもないし。でも介護を語るなかでは、とても大事なことなんです。 ※週刊朝日 2015年2月27日号より抜粋
介護を考える
週刊朝日 2015/02/23 07:00
こんなに大変!ペット介護の現実 仕事との両立をどうするか?
こんなに大変!ペット介護の現実 仕事との両立をどうするか?
「一番大変で、一番つらいのは、ニコ自身。それに比べたら、介護やリハビリに時間やお金や労力がかかることを、私たちが大変だとかつらいとは思いません」と向井さん夫妻。現在、ニコは、再び自分の脚で歩けるようにと、週に2回、水中のトレッドミルで後脚を動かすリハビリにも通っている(撮影/関口達朗) 菅原夫妻は毎日数回、カブに排尿や排便をさせる。そのほか、カブの下半身を冷やさないため、後肢を曲げ伸ばす1日100回のマッサージも大切な日課だ(撮影/臼井京音) 予想より早く、ペットに介護が必要になることもある。それでも、働く飼い主は工夫をして世話に力を尽くす。転職や転居、プロの手、施設を活用しながら……。(ライター・臼井京音)  車椅子をつけて海辺の公園を走る、11歳になるノーリッチ・テリアのニコを見て、多くの人が声をかける。 「がんばれ~!」 「走るの速いね」  同じIT関連会社で働く向井恵作さん(37)、伊知子さん(47)夫妻の愛犬であるニコに、脊髄の内部にできる腫瘍が見つかったのは、4年前だ。 「前日まで元気だったのに、急に下半身に力が入らない様子で顔をゆがめて痛がりだしたので、びっくりしました。動物病院で詳しく調べた結果、腫瘍が神経を圧迫して麻痺が生じているとのことでした」  余命3カ月と宣告され、あまりにつらそうだったため、安楽死させるかどうかまで話し合った。その後、とにかく痛みをやわらげるのを最優先と考え、定期的に鎮痛剤を投与する看病を始めた。 「電車で1時間弱の職場まで、不安げなニコを置いて出勤するのは、本当につらい。何かあってもすぐに駆けつけられないので、会社を辞めようかと悩みました。でも、夫が、鎮痛剤が自動的に出てくる装置を自作してくれたおかげで、なんとか会社は続けられた」(伊知子さん) ●スカイプで容体を確認  ニコが薬を飲んだか、容体に異変がないかどうかは、会社からスカイプを経由して休憩時間に映像で確認した。  結局、ニコは8軒目の動物病院で腫瘍を摘出。数年間は歩けるようにもなり、余命宣告も取り消された。それでも再発のおそれがあったため、向井さん夫妻は仕事と介護の両立を目指し、会社から徒歩圏内に引っ越した。  その1年後、再び腫瘍が見つかり、2度目の手術に。もう後脚にはほとんど力が入らないニコは、自宅では前脚だけで歩き、散歩時は犬用車椅子をつけるという生活を送っている。 「引っ越して、気持ちが本当に楽になりました。容体が急変したら駆けつけられるという安心感ができましたから。ニコが不調のときは、昼休みにダッシュで会社から帰宅して介護をすることもあります」(伊知子さん)  ペットの介護をきっかけに、退職に追い込まれ、起業を経験した人もいる。 「まさか、愛犬が3歳のときから介護が必要になり、会社を辞めることになるなんて夢にも思っていませんでした」  と語るのは、菅原奈美さん(51)だ。  6年前のある夜、フレンチ・ブルドッグのカブが、悲鳴をあげて失神した姿を目の当たりにした夫の芳明さん(48)は、頭が真っ白になったという。菅原夫妻には当時、犬が椎間板ヘルニアにかかるという知識すらなかった。口こう吻ふんの短い犬種は麻酔のリスクも高いと言われ、手術中は愛犬の死すら覚悟した。 「結局、もう歩けなくなりましたが、椎間板ヘルニアを切除する手術が無事に終わり、痛みがなくなって生きて戻ってきてくれただけでも良かった」 ●肩の荷が下りたような  しかし、退院後から始めた介護のため、奈美さんは当時勤めていた化粧品会社を退職した。自分の力で排尿ができないカブのために、1日に3~5回、尿道を圧迫して排尿をさせる必要があるからだ。  追い打ちをかけるように、カブはアトピー性皮膚炎を発症。かゆみや思いどおりに動けないことへのストレスでカブがイライラする様子を見て、奈美さんは心が沈むこともあった。  しかし、カブの介護やアトピー性皮膚炎の看病がきっかけで、自宅を職場に、犬や人のためのサプリメント販売の会社を立ち上げることになった。 「やりがいのある新しい仕事を得られたのは、カブのおかげ。仕事やブログなどを通して、犬の看病や介護で困っている方に、自身の体験で得た知識を伝えられるのもうれしい」  向井夫妻や菅原夫妻のように、転居や起業をして、自分でペットの介護ができる飼い主ばかりではない。 「月に数件は、犬の介護を依頼したいという問い合わせがあります」と語るのは、東京都中央区と群馬県で、犬の終生預かりを行う施設「ドッグライフプランナーズ」の岸良一さんだ。  老犬の認知症が原因で、「仕事から帰宅すると、室内を徘徊していた犬が、家具などにぶつかってケガをしていた」「夜鳴きがひどく、集合住宅の近隣住民にも迷惑がかかっているかもしれない」などと、悩む飼い主も少なくないという。 「自分の限界ギリギリまで介護をがんばっている飼い主が多いですね。けれども、入所した犬たちが、介護のノウハウを心得たスタッフと打ち解けて元気に過ごしているのを面会時に見ると、ほっと肩の荷が下りたような表情をされています」  実際に、群馬県の水上温泉にある施設では、温泉浴をしたり、屋外や室内の広いドッグランで遊んだりするうち、元気を取り戻す犬もいるそうだ。 ●プロの手を借りる 「仕事で留守にする日中、犬や猫の介護をペットシッターに依頼する飼い主も増えています」と、20年以上にわたりペットシッターサービスを行っている、「留守番わんにゃん」の山口照代さんは語る。飼い主の依頼により、床ずれを防止するために体の向きを変えたり、おむつ交換を行ったり、点滴や投薬といったケアを行う。 「老齢のペットの世話の方法や環境の整え方を知らない飼い主さんに、アドバイスをさせていただくこともあります。たとえば、足腰が弱ってペット用トイレをまたぐことが困難になった猫のトイレの設置法や、白内障で目が見えなくなった老犬との暮らし方など。ちょっとの工夫で、飼い主もペットも楽になることがありますから」  ペットの介護に関する知識と経験が豊富なプロの手を借りるという選択肢があることも、いずれ訪れるかもしれないその日のために、心にとめておきたい。  介護の末にペットが亡くなると、飼い主がペットロスに陥る状況も少なくないと、前述の山口さんは感じている。 「全力を注いで世話をするペットがいなくなり、空虚な気持ちになるのかもしれません。2匹目を早めに迎えたケースでは、ペットロスになりにくい」  実際に、向井さん夫妻も、1年前にニコの弟分となる2匹目の犬サンサクを飼い始めた。「ニコの介護にばかり意識がいってしまうとき、『ボクもかまってよ』とアピールされると、気持ちがなごみます。ライバル心の強いニコは、サンサクが元気に走り回っていると、『私だってまだまだ走れるんだから』とばかりに追いかけたりして。2匹目の存在はリハビリにも一役買っているかも」  介護に疲れた飼い主の心を癒やしてくれるのもまた、ペットの力であるのかもしれない。 【働きながらペットの介護を成功させる5カ条】 ●将来介護が必要になるケースがあると、覚悟して飼い始める ●ペットシッターや一時預かりサービスも利用 ●会社にいても、スカイプの映像で容体を確認できる ●職場から近い場所への転居や転職も要検討 ●介護できなくなった場合は、終生預かりをしてもらえる施設へ
AERA 2015/02/16 00:00
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