都電が消えた「高田馬場」と残った「早稲田」 東西線が走り始めた54年前の光景は? (2/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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都電が消えた「高田馬場」と残った「早稲田」 東西線が走り始めた54年前の光景は?

連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」

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諸河久dot.#アサヒカメラ#鉄道
同じ場所の現在の高田馬場駅周辺。道幅など当時とは大きく変わっている(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

同じ場所の現在の高田馬場駅周辺。道幅など当時とは大きく変わっている(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

 この界隈は1967年に国の「防災建設街区」に指定された。都電廃止後、駅前広場や道路の拡張に加えて旧商店街の高層化が進捗し、当時の街の面影は皆無となった。

 1970年代には、西武高田馬場駅に隣接した西武スポーツプラザともいえる「BIG BOX」や筋向かいの「F・Iビル」が開業。早稲田の学生さんをコアにした若者志向の新しい店舗が脚光を浴び、現在も流行の発信を続けている。

 余談であるが、高田馬場駅から早稲田大学の正門に行くには、「学バス02系統」早稲田正門行きへの乗車をお勧めしたい。所要時間8分・運賃も180円(ICカードは175円)で、学生でなくとも割引運賃だ。東京メトロ・東西線の早稲田駅や都電・荒川線の早稲田停留所は「ワセダ」と名乗っても「帯に短し、襷(たすき)に長し」の距離があり、早稲田大学の正門までは少しばかり歩くことになる。

 写真の800型は15系統専用で使用された定員64人の中型車。1942年に新造された700型の増備として1947年に登場した。車両寸法は700型を踏襲したものの、車体形状や台車、自重が異なり、すぐに別形式の800型になった。製造両数は40両で、製造所は木南車輌(1~20)と日本鉄道自動車(21~40)があたった。

 戦後の混乱期の製造で出来栄えが芳しくなく、1951年頃からドアや車内の改良など修善工事が実施された。柳島や南千住車庫に配置された時期もあったが、全車が早稲田車庫配置となり、路線が平坦な15系統専用で働いた。1967年から1968年にかけて廃車され、15系統が終焉する前に姿を消していた。

 戦後の影響を受けつつも、クリスマスのようなイベントで街に賑わいが生まれるような「東京」が目まぐるしく変わる時代でもあった。

■撮影:1964年12月23日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数。

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数


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