「万博は終わりましたが、つくばが気に入って、そのまま住むことにしたんです。新しい街なので、ケーブルテレビやラジオ局の開局など、私を必要としてくれる仕事があったこともありがたかったです」
他にも、ビアバーのオープンに関わったり、友人のリサイクルショップの立ち上げを手伝ったり、好奇心旺盛な下田さんはどんな仕事にでも挑戦した。
ときには、海外へ。日本語教師を兼ねて、憧れのカリフォルニアに1年間留学したこともある。音楽好きが高じて、「音楽の原点はアフリカだ!」とアフリカを放浪した時期も。帰国して楽器店で働いていたこともある。
「一文無しになって、公園でホームレスをしたこともあるんですよ。一カ月ですけどね(笑)」
■結婚相手の突然の死、両親との確執
実は下田さんには、30代から40代にかけて10年ほど一緒に暮らした女性がいた。
「年上で、中学生と高校生の子どもがいる人でした。子どもたちが社会人になったら籍を入れよう、と約束していました」
が、彼女は病気で、50歳という若さで亡くなる。
「今だから話せますが、子育てが終わったら籍を入れて二人で楽しく生活しよう、という夢がなくなったのは本当にショックでした」
落ち込んで、どうにかなってしまいそうだった下田さんに追い打ちをかけるかのように、つらい現実が突きつけられる。
「母が倒れて、半身不随になったんです。いきなり、要介護4でした」
今から6年前のことだ。
「私はやりたいことをやってきましたから、親は私の仕事や生き方を理解してくれませんでした。こんな人生を送って来れば、そりゃあ、理解できなくて当たり前だと思います。親との確執を解消しようと何度か会いに行ったこともあります。でも、ケンカになるだけ。いつかは仲良くなりたい、心配をかけている親をどうにか安心させたい、とずっと思っていたんです。母が倒れたことで、その気持ちがさらに強くなりました」
■自分の家で、両親の面倒を見たい!
下田さんは長男で、弟と妹がいるが、介護など親の最期の面倒を見るのは長男の自分の務めだとずっと思っていた。仕事の都合で関西には戻れないから、両親をこちらに呼び寄せたい、と考えた。両親に話す前に、先に準備を整えて、それから説得しようと。