『戦国武将を診る』などの著書をもつ産婦人科医で日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授の早川智医師は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたかについて、独自の視点で分析する。今回は関東大震災からの復興で大きな役割を果たした、政治家でもあり医師でもある後藤新平を「診断」する。
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研究室でも自宅でも欠かせないのが台湾特産の凍頂烏龍茶である。最近はだいぶ国内でも出回ってきたが、ペットボトル入りの大手酒造メーカーの烏龍茶しか飲んだことのない人に振る舞うと、茶葉の甘みと花のような香りに皆びっくりされる。最近では中国本土のお茶も長足の進歩を遂げたが、まだ台湾の銘茶には一歩及ばないと思う。
悪疾瘴癘(あくしつしょうれい)の地といわれた台湾にサトウキビ、蓬莱米、そして茶栽培を進め、人々を苦しめてきたマラリアやペスト、コレラなどの悪疫と阿片中毒の悪弊を一掃したのが、医師であり、大政治家でもある後藤新平である。
■帰還兵の検疫で名を馳せる
後藤新平は安政4年(1857年) 仙台藩水沢に、仙台藩士の長男として生まれた。明治維新で仙台藩は賊軍となったが、胆沢県大参事であった安場保和にみとめられて13歳で県庁の書生となり、安場が福島県令となると福島洋学校を経て須賀川医学校に進んだ。
卒業後は安場が愛知県令になったため愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)に勤務、24歳で学校長兼病院長となった(このころ筆者の曽祖父が同校の学生だったので接点があったかもしれない)。その後、軍医の石黒忠悳(いしぐろただのり)に認められて内務省衛生局に入り、官費でドイツに留学。医学博士号を取得して1892年(明治25年)に内務省衛生局長に就任した。
ほどなくして、政治事件に巻き込まれて収監、最終的には無罪になったものの職を追われるが、かつての上司石黒の推挙で1895年(明治28年)には日清戦争の帰還兵20万人に対する検疫業務を成し遂げた。この功績をかった児玉源太郎が台湾総督となると、ナンバー2の民政局長に抜擢した。後藤は現地の徹底調査をもとに大胆な改革を進め、「台湾は割譲するが貴国にとって重荷になるだけ」と李鴻章が言ったこの島を、9年間で大規模に開拓した。