本局もまた、はっきりとした羽生の敗着(負けの原因となった手)はよくわからない。典型的な藤井曲線が描かれた上での、藤井の完勝だった。
先手と後手が交互に1手ずつ指していく将棋は、先手が作戦の主導権を握りやすい。公式戦における先手番の勝率はおおむね52%前後で推移している。さらに達人同士が指すと、先後の差は大きくクローズアップされることになる。
もちろん先手有利といってもごくわずかなものだ。だからこそ将棋は先後のハンディをつけずとも成立した上で、面白く指せる。
将棋の番勝負では公平を期すため、先手番と後手番は交互に入れ替えておこなわれる。
■藤井の飛車浮き想定外の一手
今シリーズは羽生の作戦、特に後手番でどのような戦法を選ぶのかが注目されている。第3局で羽生は序盤の駆け引きの末、「雁木(がんぎ)」の形に構えた。
「ちょっとまだ未解決の部分もあるのかなあと思って、指してみました」(羽生)
羽生はもちろん、十二分の準備をして臨んだだろう。対して藤井は速攻に出る。そして29手目、藤井はほとんど時間を使うことなく飛車を縦に浮いた(二つ前方へ移動させた)。これが冒頭の言葉通り、羽生が驚いた新手筋だった。
びっくりしたのは羽生だけでない。棋士や熱心なアマチュアもまた、一様に驚いただろう。将棋には局面ごとにセット化された手順、おおよその手筋がある。ここはだいたい、飛車をひとつ左に寄せる手が部分的な定跡であり、ほとんどの上級者はそう指すだろう。そこへ藤井は飛車を浮いた。よくよく眺めてみれば、なるほどという構想だ。こんな序盤で、こんな見たこともないような筋が隠されている。改めて将棋の想像もできないほどの広さ、底知れぬ深さを、藤井によって示されたかっこうだ。
藤井の飛車浮きは、AIが示した1番目の候補手というのなら、観ている側にとっても心の準備はできる。それが現在の観戦スタイルだ。しかし飛車浮きは、中継番組において、AIがリアルタイムで示していた候補手の中ではようやく5番目に入る手だ。もしこの形が新時代の定跡となれば「藤井手筋」と名付けられることにもなるだろう。