●道灌、54歳の最期
このほかにも関東には道灌についての逸話が各地に残っているが、皇居内の道灌掘、江戸城の出城跡とも言われる道灌山、山吹伝説など挙げればきりがない。日暮里駅前や東京国際フォーラム内、日枝神社内などに太田道灌の銅像が建てられているが、どれほどの人が認知しているだろうか。
結局、道灌は54歳で主君・扇谷定正の自宅に呼ばれ、風呂から出たところで暗殺されてその一生を終える。扇谷定正とは、戦さで命を落とした主君の代わりに道灌らが急遽仕立てた後継だった人物だ。この時、道灌の活躍もあって扇谷家は関東一の勢力になっていた。定正にとって唯一の恐れは道灌だけだったのかもしれない。だまし討ちの末に絶命直前に道灌が放った言葉は「当方滅亡(これで扇谷家は終わりだ)」だったという。
●道灌の墓は遠く伊勢原の地に
道灌暗殺の話が伝わると扇谷家に付いていたものたちの多くが対立勢力へと寝返った。収まりかけていた関東の戦国時代は一層泥沼化し、結局、扇谷家だけでなく関東は後北条氏によって駆逐されるという歴史を待つことになる。気の毒な道灌の墓所はなじみのある江戸城や河越城付近でなく、暗殺された伊勢原の地にある。しかも、大慈寺には首塚が、洞昌院には胴塚と首と胴体が別々に葬られているのである。道灌の死に方を考えれば、しっかりとしたお墓があることだけでも貴重なことなのかもしれない。むしろ、怨霊となって暴れてもよかったくらいの仕打ちなのなだから。
こんな道灌の一生をNHKの大河ドラマとして取り上げて欲しいという嘆願が出されている。実は、私も、とあるお寺で何度目かの嘆願の折の署名をしたことがある。戦国時代は関西付近の話だけでないし、東京の神社仏閣には道灌に関する資料が多く残されているので面白いドラマになる気がするのだが。
さて明日、7月26日(旧暦/新暦では8月25日)は、そんな道灌が暗殺された日である。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)