岩槻・芳林寺前にある太田道灌像
岩槻・芳林寺前にある太田道灌像
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伊勢原・洞昌院にある太田道灌胴塚
伊勢原・洞昌院にある太田道灌胴塚

 東京の町は、徳川家康がこの地に都を開いた際、参謀であった僧・天海の助言もあって守りに風水の理念が取り入れられた。江戸城の鬼門・裏鬼門・北辰を神社やお寺で守護するように、建設や移転を命じたのである。もちろん神頼みだけでなく、道路や堀・川などを整備し、住みやすい内側と攻撃しにくい外側を物理的にも完成させていたのではあるが。

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 これを考えついたのは家康が最初ではない。江戸城はもともとあった城を拡張したものであるし、今も残る江戸城守護の寺社のいくつかは家康入府の前から鎮座するものだ。これら地盤を作ったのが、戦国時代の武将・太田道灌である。

●東京の基礎を作った道灌とは

 東京の神社仏閣をめぐっていると、この道灌の名前をよく耳にする。創建者や開基であったり、伽藍や社殿の修復をしていたり、別の神さまを他所から勧請していたりとかなりの数の寺社の歴史にかかわっている人である。東京の基礎を作った人としてもっと有名になってもいいのではないかと思っているが、実際は都民にさえもほとんど知られていないのが実情だ。歴史は強者によって作られるとはよく言ったもので、太田道灌があまり知られていない理由は、最期があまりに悲惨だったからかもしれない。

●関東における戦国時代の幕開けとは

 太田道灌は室町時代の中期、鎌倉公方(室町朝廷が関東支配の長として任じた職)の補佐役一族の子として生まれた。戦国時代の幕開けとなった応仁の乱が1467年に起こるが、関東ではすでに1438年に永享の乱が発生、鎌倉公方と補佐役との間で争いが起こっており、各地の勢力が戦さを重ねていた。やがて、利根川を挟んだ2つの勢力が、約30年弱にも及ぶ戦いを続けるのだが、そんな中、道灌は室町幕府の後ろ盾を得ていた扇谷上杉家の筆頭家臣・太田家の家督を24歳の若さで継ぐのである。

●江戸城のはじまり

 この頃は品川付近に居宅があったようだが、対立勢力が拡大していく中で、河越城、岩槻城などとともに江戸城も築城する。もともと江戸城は、すでに衰退気味であった江戸氏のものだったが、房総の勢力へ対抗するためにどうしてもこの地へ拠点がほしかった道灌は、江戸氏を口説くためいくつかの奇跡話を用いたとの逸話が残っている。江戸城を手に入れた道灌は、堅固な城として作り直すのだが、この時鬼門側(北東)に柳森神社、湯島天神などを、裏鬼門側(南西)に日枝神社、平河天満宮、品川神社などを創建・整備・社殿の寄進などをした。

●全戦全勝で主家を助ける

 お寺についても鬼門側に、江戸城から出た金印を本尊にした吉祥寺、南西側に道灌が禅の師と仰いでいた雲岡舜徳を招き青松寺を開基している。道灌が成人した時、すでに関東は戦国時代に入っていたわけだが、彼は30年間に戦った30数戦ものいくさを独力で全勝したと言われている。道灌が参戦するまでの主家(扇谷上杉家)はかなり不利な状況だったらしいのだが、戦況は一転した。戦さ上手だった道灌が戦いの前に必ず戦勝祈願をしたと言われているのが、江戸城の北辰に位置する妙義神社で、創建者である日本武尊とともに社に名前を残している。また、道灌が唯一負けかけたと言われる文明3(1471)年の戦いの際、一時退避したお寺・自性院(新宿区)には、彼を助けたが、「招き猫」の発祥の地として道灌伝説とともに伝わる。この逸話にちなんだ猫像は新宿住友ビル前にも飾られてもいる。

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