なのにぼくは、なぜか最後まで見てしまったんですよね。もしかしたらぼくらは、起承転結だとか、フリがあってのオチだとか、そういうことに慣れ親しみすぎていたのではないかと、ふと思ったりして。現実ってもっと脈絡のないものかもしれない、とか。
武田:ちょうど今、芥川賞を受賞した遠野遙さんの『破局』という小説を読んでいるんですが、文章の展開が奇妙なんです。たとえば、「私は、チーズバーガーを食べるはずだった。ところが、急に魚のバーガーが私の心を捉えた」とある。でも、なぜそのように変化したかは書かれない。心地悪いんです。
だけど、日頃の生活に置き換えたら、そんなこと、普通にありますね。マックに行って、チーズバーガーを食べようと思ってたけどフィレオフィッシュにした、という思考の流れは。
上出:全然ありますね。「だから」で接続されないということですね。
武田:そうです。思考の流れをそのまま文章化すると奇妙になる。物語としても、どこか砂利が混じっているというか、破綻しているところがある。でも、自分たちが生きている日常は、そもそもそういうものなんじゃないか。
<私(武田)にとってロジカルとは、「雨が降りそうだから、キャンディをなめよう」の可能性を丁寧に考察していくことだと思っているが、1分で話さなければならないとする人たちは、差し出されたものがロジカルでなければ、ロジカルとは認めてくれないのだ。>(『わかりやすさの罪』より)
上出:なんの伏線もなく何かが起こるのが現実ですもんね。なのに、ドラマでも映画でも、伏線が回収されないと許されなくなっているじゃないですか。バラエティーも作劇法にのっとったものばかりで、その段階ですでに「リアル」ではないですよね。
武田:それなのに、上出さんの番組は「タブーなし」とか「台本なし」と言って褒められる。きれいに整理されたものを求めるわりに、偶発的なものが連発している作品が好きというのが、よくわからないんですよ。
上出:確かに。それはなんなんでしょうね。「これは偶然なんですよ」という体を為しているものが好きですよね。なんていうか、「理路整然とした偶発性」が求められていると思います。
武田:なるほど。
上出:リベリアで、エボラ(出血熱)から生還した女性に取材したんですよ。ぼくが「エボラのあと何か変わった?」と聞いたとき、視聴者はたぶん「生きていてよかった」という返事を求めていたと思うんです。「理路整然」としているから。でも実際は、彼女は「何も変わらないよ。不幸なまま」と答えるんですね。その答えはバグとして消費されていくんじゃないかなと思います。