「上野、当座の支度金として1000万ぐらい用意できるか」
「そんな金ありませんよ。なんでそんな大金が必要なんですか」
「じゃあ、サラ金でも何でもいいから借金して作ってくれよ。最初の契約は、自腹を切って取るものなんだよ」
先輩社員はP生命に転職する際、2000万円の借金をしたという。
「でもな、こんな借金あっという間に返せるんだ。なんせ、年収2000万円以上は固いんだから」
多額の借金をして自社の保険を買い取らなくてはならないような世界は、考えただけで恐ろしかった。上野はP生命の話を断って、タクシー業界に飛び込む決心を固めた。
タクシー会社は、なんとなく大手がいいだろうという理由で日本交通を受けた。面接をしてくれた人事担当者の対応が人情味に溢れていた。
「過去についてはとやかく言いません。これで奥さんと復縁できるといいですねと言ってくれたんです。まだ、30代ぐらいの若い人だったけれど、いい人だったなぁ」
ところが、日本交通に入社することを元妻に告げると、彼女はがくりと肩を落としてしまったのである。もしもP生命に入社してくれるなら復縁を考えてもいいと思っていたが、タクシードライバーになるなら復縁するつもりはない。元妻は、そう上野に宣告した。理由は、「友だちに言いにくいから」だった。
「その言葉を聞いて、僕はもう、この人とはいいやと思いましたね」
元妻のマンションを出てアパートを借り、いまはもうなくなってしまった常盤台営業所に勤務するようになって以降、上野は元妻ともふたりの子供とも一度も会っていない。
■大切なことだから
気になるのは、築地で乗せた例の女性客のことである。
彼女とこれからどうするのか上野に問いただしてみると、直情径行が売りの上野らしくない、優柔不断な答えが返ってきた。
「70歳を過ぎた母親が九州にひとりでいるし、実は、長期入院している病気の妹もいるんですよ。おふくろは年金を貰えるようになったら帰って来いって言うし、お袋が逝った後は、僕が妹の面倒を見なければならなくなるし……。いろんなことが引っかかっているんですよね」