■ベートーヴェンの音楽と天命
音楽評論家の吉田秀和は、自著において「…18世紀以来のヨーロッパ音楽の本質的な特徴の一つを音による強靭な建築性と考えるならばベートーヴェンの音楽はそのほとんどが間然とするところのない完璧さの典型である。そしてそれを可能にしたのは、極度の緊張をはらんだ力強い主題の設定の仕方と、そこから実に理路整然と、しかも強烈な効果をもった展開をひきだしてゆく主題の処理の仕方を彼が見事に支配し駆使したからだ…」と記している。多くの作品においてベートーヴェンは、数小節(有名な「運命」では「扉をたたくたった4音」)の主題を組み合わせ、あるいはいくつかの動機に分解して執拗なまでに繰り返し反復し展開、変奏する手法を用いている。その結果は、作品を他に追随する者の無いレベルまで完成させている。
この偏執的なまでの構成力には、壮年から彼を苦しめた聴力障害が関与しているのかもしれない。ただ、現代であれば人工内耳手術によって感音性難聴をかなり改善できることから違った作風になったかもしれない。彼の晩年はピアノもバロック的なピアノフォルテから現代ピアノへ、オーケストラの楽器もバロック・ヴァイオリンやトラヴェルソからモダン楽器に代わっているので、こういった音色をもとに作曲したかもしれない。
56歳というまだまだの年齢にあって彼を天に召した病気は何であったのか。
天がもし彼に他の「ドイツ三大B」であるバッハやブラームスと同じくらい、もう10年の寿命を与えられればどのような境地に達したのか。実際、モーツァルトやバッハは生涯の何時の時点でもその作品は様式的に完成されているが、ベートーヴェンは年を経るほど内面的になり、後期の弦楽四重奏曲など晩年の作品は前人未到の境地に達している。
後世の医史学者、音楽史研究者に非常に大きな課題を残した大作曲家ともいえるだろう。
◯早川 智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)など
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