50歳を過ぎた1821年からは臥床しがちになり、バーデンに転地療養した。このころ最初の黄疸があらわれたが、「ミサ・ソレニムス」と二つのピアノソナタを仕上げ、翌年にはウィーンの楽壇に復帰した。翌年から1826年にかけてはディアベリ変奏曲、交響曲第9番「合唱」をはじめ、いわゆる後期の弦楽四重奏曲など音楽史に残る傑作の数々を作曲した。もちろん作曲の傍ら、愛用のラインワインとモーゼルワインは欠かさなかった。

■好物のコーヒー

 1826年暮れ、ドナウ川沿いのグナイクセンドルフから無蓋馬車でウィーンに戻る途中で引いた風邪をこじらせ、最後の年である1827年はベッドで迎えることになった。このころから黄疸に加えて著明な腹水がみられ、たびたび腹水穿刺(ふくすいせんし)を受けたが 非代償期肝硬変のためますます全身状態が悪化した。それでも彼はなじみの音楽出版社ショットに特上のラインワインを依頼した。

 3月24日、友人のブロイニングとシンドラーに遺言を託し「諸君、喝采せよ、喜劇は終わった」というローマ劇の終句(のパロデイー)を述べると横になった。翌日念願の極上のワイン、1806年もののリューデスハイムが届いたが、瓶を見せられたベートーヴェンは「残念、遅すぎる」とつぶやき昏睡に陥った。

 こうなっては当時の医学はなすすべも無く、1827年3月26日午後5時45分死去。遺体はウィーン総合病院病理部のJ.ワグナーの執刀によって剖検され、肝硬変と慢性膵炎、脾腫大、腎石灰化が確認された(ちなみに助手は後の大病理学者ロキタンスキー)。内耳も解剖されたが、聴覚障害の原因となるような所見はみられなかったという。

 彼を終生苦しめた症状は、難聴、慢性下痢と腹痛、反復する呼吸器感染と関節痛、肝障害、腎障害と、非常に多岐にわたる。これを統一的に説明するのはなかなか難しい。少なくとも大好きだったワインの過飲は弱った肝臓に少なからぬダメージを与えたはずで、もう一つの好物だったコーヒーを主たる嗜好品としていれば、もっと長生きしたかもしれぬ。

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56歳での死が示したもの