■聴力障害と作曲活動
問題は、耳が聞こえなくなると作曲活動にどのような影響が出てくるのかということである。
先天的な聴力障害があれば全く作曲活動は不可能だろうが、ベートーヴェンの場合、聴力障害を発病したのはすでに作曲家として名声と自己のスタイルを確立した後であり、もともと他人の作品や評価にあまり影響を受けにくい性格から、ますます独自の境地を深めていった。むしろ、いわゆる傑作の数々(交響曲では3番「英雄」以降、ピアノソナタではハ長調「ワルトシュタイン」、ピアノ協奏曲では第5番「皇帝」、弦楽四重奏曲「ラズモフスキー」など)は、聴力を冒されてからのものである。外の雑音に耳を煩わされず内なる声のみに耳を傾けたことが大作品の完成につながったとする説もある。
もっともこれは彼のような大天才にして初めて可能で、凡百の音楽家であれば独りよがりの駄作の山になってしまったかも知れぬ。「わが祖国」のスメタナ(Smetana)や「レクイエム」のフォーレ(Faure)も晩年難聴に悩まされ作品数は激減したが、ベートーヴェンの場合、最晩年まで創作の量と質を維持したことは驚異的な精神力の賜物だろう。
■ワインを愛し
ただ、ウィーンに移り住んでからの暮らしもベートーヴェンにとって苦労の連続だった。
当世一の作曲家という大評判とは裏腹に、有名人になった兄に借金にやってくる弟たちや素行不良の甥など親族とのトラブル、貴族の令嬢と繰り返した大恋愛と失恋に加えて、ナポレオン戦争と革命騒ぎなどの社会の混乱、これによる作曲料収入の減少や楽譜印税の未払いなど、経済面での問題が大きなストレスとなった。ベートーヴェンは筆まめで、有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」や「永遠の恋人への手紙」など出されなかった手紙が多数残っている。また、耳が不自由になってからは周囲とのコミュニケーションを会話帳に頼ったため膨大な一次資料になった。しかし、死後、心酔者であった秘書のシンドラーによって偉人としてのイメージの妨げとなるようなものは多く破棄されてしまった。