しかし、我が子には期待するところが大きく、深夜帰宅すると、眠っている幼いルードヴィッヒを叩き起こしてピアノの前に座らせ厳しいレッスンを授けた。十数年前に天才少年としてヨーロッパ中をならしたモーツァルトのように息子を売り出そうとしたのだが、音楽教育家としても一家言あったモーツァルトの父レオポルドのような教育はとてもかなわず、息子は思うようにはならなかった。
ベートーヴェンはアルコール依存の父の手を離れて宮廷オルガニストのネーフェに系統的な音楽教育を受けた後、22歳でウィーンに出てからはモーツアルトの敵役であるアントニオ・サリエリに師事した。しかし、彼は師匠の優雅な作風は受け継がず、演奏会で「巨大な演奏力」により未発達であった当時のピアノフォルテの弦をたたき切ったという。その暴力的な演奏をモーツアルト没後、新しい時代の音楽を求めていたウィーンの聴衆は涙を流して熱狂的に歓迎した。最初のピアノ三重奏曲「大公」やピアノソナタ二短調「テンペスト」などがそのころの代表作である。貴族夫人や令嬢のピアノ教師としても引っ張りだこになり浮名が流れたのもこの頃からである。
■女性好きだった大作曲家
しかし、彼が聴力障害を患ったのは、絶頂期にさしかかった1793年、28歳の頃だった。 最初は左耳そして右耳の耳鳴に始まり、39歳の頃には絶え間ない耳鳴のため自殺も考えるようになる。同時に難聴も進行し1815年45歳の頃には完全に聴力を喪失し、会話帳に頼るようになった。しかし耳が聞こえなくなると耳鳴も軽快した。
ベートーヴェンの聴力障害の原因については古くから百説続出している。メニエル病とする伝記もあるが、めまいや立ちくらみなどの前庭症状の記載はない。同時代のヴァイセンバッハ(Weisenbach)は発疹チフスとしているが経過が長すぎる。フリメル(Frimmel)の外傷説も受傷のエピソードが明らかではない。また先天梅毒もしくは後天梅毒による難聴とする説も提唱されているが、シューベルトやパガニーニにように梅毒に感染していたことを示唆する所見はない。
ベートーヴェンはかなりの女性好きであったことは間違いないにせよ、追い求めたのが貴族の令嬢ばかりで、娼婦と親しかったシューベルトやパガニーニとは好みが違っていたのである。ほかにも耳硬化症、骨パジェット病、自己免疫性感音性難聴という説もある。持病だった下痢や死病になった肝硬変との関連から多臓器疾患のサルコイドーシスとする説もあるが、はっきりした根拠はない。