発酵の摩訶不思議な世界に人生を捧げ、希代のグルマンとして世界中を旅してきた小泉武夫さん。定年後の第2ステージに選んだのは、北海道石狩市だった。連載5回目は、モクズ蟹が登場。大好物の食材を豪快に食べ尽くす、グルマンの調理法も必見だ。
五月下旬のある暖かい日の昼、私は石狩川の土手の上からのんびりと川の流れを見ていると、遠く川上から一艘のべか舟が下ってきて、眼下の舟着き場に係留した。舟に乗っていたのは親船研究室からそう遠くないところの新築家屋に住んでいる漁師の国貞軍治さんである。私は散策しているときによく出会うので、挨拶はとっくに済んでいるだけでなく、最近は立話までする仲だった。
軍治さんは七〇歳だと言っていたけど、がっちりした体躯と張りのある顔は年齢を感じさせない若さがあった。私は堤防の上から手を振ると、手拭いで頬被りした彼も私に気づき手を振り返し、すぐに煙草に火をつけて口にくわえるのが見えた。そして、こっちに来い、来いと大きく手招きする。
私は堤防からつまずきそうになりながら走って舟着き場に行くと、軍治さんは舟の上の竹籠を見ろ、と言う。そこには、握り拳大のモクズ蟹が何十匹と蠢いていた。それを見て私はどうにも抑えきれないほどの喜びと興奮を覚えた。それというのも、私はさまざまな蟹の真味をよく知りつくしてきているからである。大学の教授の時代、趣味がこうじて機会あるごとに世界中を旅し、さまざまな食べものを味わってきた中で、大好物の蟹はことごとく舌を滑らせ流涎してきた経験を持つからであった。
日本では北海道の毛蟹、タラバ蟹、花咲蟹、北陸のエチゼン蟹、長崎の渡り蟹、沖縄のノコギリガザミやタイワンガザミ、小名浜のクリ蟹、鹿児島のアサヒ蟹、海外ではカムチャッカ半島の巨大なタラバ蟹、アマゾン奥地マナウスの泥蟹であるカランゲージョ、アラスカのダンジネスクラブ、カリブのストーンクラブなどなど枚挙にいとまがないほど多種多様の蟹を食べてきた。
蟹というのは、種類によって味は千差万別といったほど違いがあって、またその辺りが楽しみであるのだけれども、これまでの私の舌の分析では海産の蟹よりも淡水の蟹の方が断然美味だと思っている。それは確かに、ズシリと重く身の詰まった最高値をつけられた毛蟹の上品な白い身と山吹色の味噌の美味さといったら舞い上ってしまうほど美味しいし、エチゼン蟹の上品な甘みにも舌躍頬落するのであるが、例えば中国シャンハイ蟹や南米のカランゲージョのような淡水系泥蟹、そして日本の河川に棲息しているモクズ蟹を食べてみると、海洋性のものとは味がまったく異なる。野趣味がある上にいわゆる蟹味噌の味が濃厚で、メスの持つ赤みがかった山吹色の卵巣の美味さは、耽美なほどの木目の細かい甘みとうま味を持っていて秀逸であるのだ。