こうして、軍治さんからいただいた初めての石狩川のモクズ蟹を賞味してみた。先ず煮た蟹を大皿に五杯も盛ると、真っ赤な色彩の美しさだけでなく、豪快豪華そのもので私はそれを見ただけで、パブロフ博士の犬君のように涎が自然に出てきて興奮した。とにかく蟹を一杯つかみ取ると、ズッシリとして重い。心ときめかせて胴部と殻部をパカッ! と割るようにして二つに引き離すと、わああ、凄い。嬉しい。甲羅の内側にも、胴体の中央部あたりにも、例の赤みがかった橙色の蟹味噌がベッタリと付いている。

 すかさずそのあたりに口を付け、舌でペロペロしたり、チュウチュウと吸ったり、舐めたりした。その蟹味噌の濃厚でコクのある味は、たちまちのうちに私の大脳味覚野系器官に反射されて、もう極限の美味状態に達したのである。この世に、人間がいまだに本性をつかみきれていない幻の真味があるとすれば、正しくこの味かも知れない。「淡味集合して濃味を成し、その濃味強からずして無上の淡味を呈す」。私はその石狩川のモクズ蟹の味をこう綴った。

 大型で褌の小さな雄蟹のむっちりとした肉身は、甘く上品なうま味で充満し、また褌は大きいがやや小型の雌蟹の、赤みがかった妖しいほどの代赭色の卵巣は、クリーミーなコクと濃いうま味が絶妙であった。モクズ蟹の炊き込みご飯は、ぶつ切りにした蟹の身が飯の中にゴロゴロと入っていて、その飯粒は、蟹のエキスや蟹味噌などを吸って、薄い橙色に染まっていてとても美しい。蟹の身とご飯を丼に盛って食べたところ、飯の一粒一粒に蟹の甘みとうま味が付いていて、さらに蟹味噌や卵巣からのコクもクリーミーな感じに付いていて、それが飯の耽美な甘味に包み込まれて絶妙であった。

 モクズ蟹の味噌汁も、濃醇なコクとうま味に満ちていて、飯にぴったりと合っていた。私は石狩川の蟹の上品で優しいうま味に感動し、食後はしばらくの間うっとりとしてしまった。これまで食べてきた全ての陸棲淡水系蟹の中でも、味は決して劣らず、すばらしいものであった。(続く)

小泉武夫(こいずみ・たけお)/1943年、福島県生まれ。東京農大名誉教授で、専攻は醸造学、発酵学。世界各地の辺境を訪れ、“味覚人飛行物体”の異名をとる文筆家。美味、珍味、不味への飽くなき探究心をいかし、『くさいはうまい』など著書多数。

週刊朝日  2021年3月5日号より抜粋