日光東照宮の奥宮にある宝塔(家康墓所)
日光東照宮の奥宮にある宝塔(家康墓所)
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東京タワーそばにある金地院(左手建物が本堂)
東京タワーそばにある金地院(左手建物が本堂)
不忍池に浮かぶように建つ寛永寺・不忍池辯天堂
不忍池に浮かぶように建つ寛永寺・不忍池辯天堂

 暑い東京でオリンピックの熱い戦いが繰り広げられている。というわけでもないが今回は、東京という場所について考えてみたいと思う。そもそも東京が日本の中心になったのは、江戸時代以降のわずか400年ちょっとで、それまでの1000年以上の長きにわたり、都が置かれていたのは上方(関西)だった。

●上方から関東へ中心が動く

 余談だが、手土産などを渡す際に使う「下らないものですが…」という「下らない」という言葉の語源は、「上方から来たものではない(下等品)」という意味から来ている。灘や伊丹、伏見などでできた酒が江戸に運ばれてきた際「下り酒」と呼んで尊んでいたことから、関西からくる(洗練されている)もの全般に対して「下りもの」が使われるようになった。「下りもの」の対義語は「登(のぼ)せもの」。江戸から上方へ送られたものという意味だ。博多あたりで使われている方言の意味とはちょっと違うが(いや、ある意味似てるのか?)。それでも江戸時代の中期以降は、消費の中心地でもある江戸が、文芸・文化でも食文化においても日本の中心地となっていく。

●幕府がついには朝廷の上に

 この歴史の流れは紛れもなく、徳川家康が豊臣秀吉によって江戸に移封(いほう)されたからである。その後、家康が天下人となって江戸幕府を開き、江戸に政治の中心を持ってきたためだ。この時、天皇は今まで通り京都に居を構えていたが、それまでの朝廷が持つ権限は削がれていき、京の都に政治力はなくなっていた。幕府の許可なしには天皇は譲位もできず、官位の叙任や改元も幕府の権限下に置かれることとなったのである。

●家康入城の日は武士の祝日に

 家康が初めて江戸城に入った日は天正18(1590)年8月1日(旧暦)とされている。もともと8月1日は「八朔(はっさく)」といい、農家などでは収穫の祝いを贈り合う日であったが、家康の江戸入りを記念して武士の祝日としても大きく行事化していった。家康が以後260年も続く政治の中枢を江戸城に置いたことで、日本の中心は関東に移ったのである。

 織田信長や豊臣秀吉の治世から、学んだことが多かったのだろう家康は、後に敵となるであろう公家や大名たちを各種法律などで牽制していった。一方で、信長たちが制圧に苦労してきた寺院に対しては、人々を管理するために利用することで、互いの利益を共有したのである。

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