●随一のブレーンは僧・崇伝
家康の初期のブレーンに金地院・崇伝という僧侶がいる。東京にある金地院は、江戸城内にあった彼の住居が崇伝の没後、東京タワーの真下に移転したものだ。もちろん京都には本来の居所であった南禅寺塔頭・金地院があってのことである。
崇伝は、すさまじく優秀な人だったらしく外交・交易についての事務全般を取り仕切り、国内の寺社・宗教関連の決め事などもすべて担当した。それまでは、浦賀へスペインのガレオン船までも招聘して外国との交易に積極的だった家康が、慶長18(1614)年に「伴天連追放之文」出し、海外との窓口を締めていくようになる。この時発布された「伴天連追放之文」を一晩で書き上げた崇伝の能力を高く評価した家康は、その後の寺院諸法度、武家諸法度、禁中並公家諸法度などの法規についても崇伝を起用したとされている。
●お寺が幕府の出先機関に
そのひとつに「寺請制度」というシステムがある。元々の目的は、キリスト教などを締め出す狙いからで、土地の人々は必ずどこかの寺院の信者である必要があり、お寺はその証明をするというものである。お寺では戸籍のような人別帳が作成され、誕生から死亡、結婚や離別などまでを記録、旅行や転居の際にはお寺から寺請証文をもらう必要があった。お寺は土地の人たちを管理する義務を負い役所的な責任もあったが、各人の葬儀や供養を全般に引き受けられるという安定した収入も得られたため、比較的すみやかに浸透していった。ちなみに時代劇などで「無宿人」と呼ばれるのは、このお寺からの証文を持っていない人を指す。現在のホームレスと同意義ではない。
●もう一人の参謀・天海
優秀すぎる崇伝が没したのち、崇伝の寺社関連の仕事を受け継ぐため寺社奉行が創設された。なお、それ以外、例えば外交は長崎奉行、教育関連は林家(林羅山の一家)が引き継ぐなどしている。崇伝ひとりでどれだけの仕事をこなしていたのかがよく分かる話である。時はすでに3代将軍・家光の時代となっていた。
さて 家康は、参謀としてもう一人僧侶をそばに置いた。それが上野・寛永寺を設営した天海である。