●江戸を京の町のように
天海は、江戸を京のような風水的に守られた町にしようとさまざまな工事を行なった。まず、寛永寺は延暦寺を模して建立、不忍池を琵琶湖に見立て、池の上に弁天堂を建てた(琵琶湖には竹生島弁財天・宝厳寺がある)。増上寺や青松寺を裏鬼門側である芝へ移転させ、江戸城の北斗に日光東照宮を置き徳川家康を祀って江戸の守護神とした。3代・家光も日光に輪王寺が建立され眠っている。なお、2代・秀忠ほか6人の将軍は増上寺に、8代・吉宗ほか6人の将軍は寛永寺にお墓があり、鬼門・裏鬼門を守護している。
●江戸には日本中から寺社が集まり
その後、家光の時代に定められた参勤交代のおかげで、全国の有名寺社が江戸にどんどん集まってきた。江戸に留め置かれる正室と世継ぎのためでも、藩内の家臣のためでもあったろう。地元でお参りしていた寺社の分社を江戸の藩邸へ持ってきたのである。
有名どころでは、九州・久留米藩の「水天宮」、大岡越前守が連れてきた「豊川稲荷」、四国・丸亀藩は「こんぴらさん」(虎ノ門・金刀比羅宮)を、今は小さくなってしまったが鹽竈神社(新橋)を仙台藩が勧請している。
徳川家康という人は、優秀な人を見分け使うのが上手な人だったように思う。江戸幕府を開いた折、すぐに家臣たちを関東一円の支城に配置している。一方で、身近なところには僧侶を置き、政策を固めていった。一人でできることには限界があることを信長や秀吉を見て学んだのだろう。有力な家臣たちに対する褒賞も迅速に相手が期待するより多くを与えた。
そんな家康の最も不可解とされる裁定は、長男・信康への切腹令である。のちの時代にさまざま議論がなされているが、興味深いのが最後の将軍・徳川慶喜が信康の子孫にあたることである。あれほど人知に及ばぬところまでにも気をまわした家康ながら、因果はめぐる──不思議なものである。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)