●黄門さまも激怒した後処理

 被害者と加害者がどちらも何も口にしないまま亡くなってしまっているので、本当の理由はわかる由もない。前年に行われた「淀川治水策」で堀田正俊から予算額があまりにも高すぎると、担当から外された稲葉正休が恨みに思っていた、という理由もあげられているが、これは治水策の方法の違いでの予算差であり、中抜きを疑われたというものでもない。調べてみたら、稲葉策を支持するという署名のようなものも集まっていたようだ。

 この事件に関し、水戸光圀が「犯人をその場で成敗してしまったのでは、原因がわからぬではないか」と激怒したという記録も残っている。

●この事件がなければ「生類憐れみの令」はない?

 当時から陰でささやかれていた話として、堀田正俊が優秀で真面目なため付け入る隙のなかった将軍が、だんだん彼を疎ましく思うようになり、排除する方法を探していて結局は暗殺を選んだ、というものがあった。近年研究がすすみ、これが正解ではないかという説に傾きつつある。

 堀田正俊は「生類憐れみの令」に反対していたとも言われる。この令はひとつの法令ではなく、いくつかの触書きの総称である。最初はいつからかは諸説があるが、堀田正俊が殺害された前年、犬を殺した人物を極刑にした事例があり、これらに対して苦言を呈していたようだ。

●堀田家につきまとう怨霊

 堀田正俊暗殺事件の黒幕が、将軍・綱吉かどうかはすでに推測でしかない。だが、堀田家には実はつきまとう怨霊伝説が残っている。堀田正俊は下総佐倉藩主である堀田氏宗家の家系ではなく、家光の近習だった堀田正盛の長男・正信があとをつぎ、三男だった正俊は別途領地を与えられ大名となったのだ。

 兄である正信は、別の意味でも有名だ。芝居の題材ともなっている「義民・佐倉宗吾」の話は、正信の重税に苦しんだ佐倉藩領民を代表して名主・木内惣五郎が将軍への直訴を行ったものである。寛永寺にて将軍・家綱へ無事訴状は届けられたが、本人だけでなく妻と4人の子供も打ち首にされたこの事件は、のちの時代福沢諭吉にも義民として語られている。

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