■自分はすごい写真を撮っている
そんな「衝撃的な現場」を誰かに伝えたいという気持ちが少なからずあった。「でも、写真なんか、絶対に無理だろうな、という気持ち」の方が強かった。
ところが、半年ほどがたち、仕事にも徐々に慣れていったある日、店長から思いもよらない声をかけられた。
「福ちゃん、写真の勉強をしているなら、お客さんの写真を撮ってみたら?」
「えっ、いいんですか?」
そう、返したものの、頭がついていかない。「店長としては、ぼくがお客さんのにっこりした顔を撮って、プレゼントしたら喜んでもらえる、元気づけられる、という意図だったと思うんですけど……」。
それでも翌日から毎日、一眼レフをぶら下げて配達に通った。
「でも、ずっと、シャッターが切れなかったんです。すごくビビっちゃって。それに、『撮っちゃいけない』という思いがまだ強くあった」
ようやく撮影できたのは半年後。
「おばあさんに『写真、1枚撮っていいですか』と、勇気を出して聞いたら、『いいわよ』って。でも、パシャっと、撮った瞬間、(ああ、もう、これは逃げられないな)と、思ったんです。とうとう踏み込んでしまった、と」
1枚撮ると、せきを切ったように撮れるようになった。そして、意外にも高揚感を覚えた。
「目の前に広がっている、なかなか出会うことのない状況に興奮していた。『この状況を伝えなければならない。自分はすごい写真を撮っているんじゃないか』という気持ちになった。それがエネルギーとなって、毎日、毎日、写真を撮った」
■むしばまれていく精神
ところが、「撮影した写真を見返すと次第に重たい気持ちになっていった。でも、その苦しさが何なのか、当時はまったくわからなかった」。
その苦しみを外に吐き出さないかぎり、この世界から逃れられないようなところに入り込んでいった。
「それでもとにかく、写真展をやるまでがんばろうと思った」
そして「もう限界だった」、2008年、写真展「食を摂る」をニコンサロンで開催した。そこで「初めて、自分が何を撮ってきたのか、客観視できた」。
「とんでもないことをしてしまった、と思った。ものすごい罪悪感にかられた」