一度はプロ入りに心が揺れながら、指名後に一転入団拒否したのが、89年のヤクルト3位・黒須陽一郎(立大)だ。

 ベストナイン3度受賞の強打者で、89年秋に主将として立大の23年ぶりVに貢献した黒須は、野球部のない日本興業銀行への就職を内定させ、プロには行かないとみられていた。

 だが、最後まで進路に悩んでいた黒須は、ドラフト直前、立大の先輩にあたるヤクルト・片岡宏雄スカウト部長に相談し、「どうしても野球が捨てられない」と指名してくれるよう頼んだ。

 当初ヤクルトは黒須を獲得する予定はなかったが、後輩の頼みとあって、片岡部長は渋る野村克也監督を説得し、1位・西村龍次、2位・古田敦也の次の3位で指名した。

 指名直後、黒須は「ヤクルトは長嶋(一茂)先輩もいますし、希望の球団です。前向きに考えたい」と語り、スポーツ紙もライバルの巨人1位・大森剛(慶大)、ロッテ1位・小宮山悟(早大)とともに、プロでの活躍を期待する論調で報じた。

 ところが、間もなく黒須は再び興銀入社へと心変わりし、ヤクルトも12月14日、ついに獲得を断念。面目を失った片岡部長は「これからは野球のことは一切語るな」と釘を刺したという。

 この一件以来、ヤクルトは現在まで社会人経由などの出身選手を除き、立大の選手を指名していない。

 最後に2000年代にあった入団拒否劇を紹介する。

 00年、オリックスは「契約金ゼロ枠」という新しい試みをスタートさせた。プロ入りを志望しながら、ドラフトにかかるかどうか微妙なレベルの選手にチャンスを与えるのが目的で、入団時の契約金はゼロだが、入団後の1軍登録日数に応じて上限2千万円の出来高契約金を支払うというもの。

 対象は5位以下の指名選手。同年は5位から9位までの5人が該当したが、皮肉にも契約金ゼロが原因で、5位・開田博勝(三菱重工長崎)との交渉が暗礁に乗り上げてしまう。

 柳川高時代は夏の甲子園ベスト8、法大時代も3年時に日本一、社会人でも主将として都市対抗準優勝に貢献した開田は、この年のドラフトで指名された全86選手中、一番の俊足でもあり、上位指名されてもおかしくなかった。

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ファンから「契約金ゼロ枠」は批判の的に