今年で57回目を迎えたドラフト会議。近年は入団を拒否する選手もほとんどいなくなり、過去10年間でも、2011年の日本ハム1位・菅野智之(現巨人)と16年の日本ハム6位・山口裕次郎(現JR東日本)の2人だけだ(育成は除く)。
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だが、ドラフト草創期から1970、80年代にかけては、諸々の事情から入団を拒否する選手も少なくなかった。
ゴルファー転向を理由に入団を断ったのが、71年のヤクルト3位・尾崎健夫だ。
徳島海南高時代は全国でも屈指の本格派右腕だったが、プロゴルファー・尾崎将司の弟で、指名直後も「プロ野球入りか、ゴルファー転向かは五分五分の線」と迷っていた。
ヤクルト側は「陥落は時間の問題」と獲得に自信を深めたが、ここで兄の“ジャンボ”から「待った!」がかかる。
「健夫は野球選手よりもゴルファーのほうに素質がある」と考えた兄は、「野球に比べてゴルファーは寿命が長いし、収入だって力をつければ野球に負けない。それに野球の場合、故障やケガをすれば、それでおしまいという危険をはらんでいる」と自らの西鉄選手時代の経験もまじえて、弟を説得した。
かくして、指名から5日後の11月24日、尾崎は「正直言って(野球に未練)ありますが、ゴルフで成功した兄が“お前は運動神経が抜群だから、ゴルファーとして絶対に成功する”と言いますから、それを信じています」と正式にゴルファー転向を表明した。
プロ野球人気全盛時代にドラフト上位指名を蹴り、ゴルファーに転向するというニュースは、当時大きな驚きをもって迎えられたが、尾崎がゴルファー転向後、“ジェット”の愛称で、弟・直道を加えた“尾崎3兄弟”で活躍しているのはご存じのとおり。この選択は正解だったと言えるだろう。
次は1980年代。74年から90年まで各球団の指名人数枠が6人以内(78~80年は4人以内)に制限された結果、指名拒否は減ったが、その一方で、80年代後半には、ドラフト前にプロ拒否を表明した大学ナンバーワン左腕・志村亮(慶大)や86年の大洋2位指名の捕手・石井章夫(慶大)ら、六大学の有力選手の拒否が相次いだ。