現役引退後も、自らを「修業中の身」と定義し、生涯“現役の野球人”を貫いたのが、東京オリオンズ時代に史上最年少(31歳7カ月)の通算2000本安打を達成した“天才打者”榎本喜八だ。

 72年の西鉄を最後に18年間にわたる現役生活に終止符を打った榎本だったが、その後も都内中野区の自宅から約20キロ離れたオリオンズ時代の本拠地・荒川区の東京球場まで1日おきに往復のランニングを続けていた。

 77年5月17日付のスポーツニッポンは、グランドコートを着て、トレーニングパンツ姿の榎本が深夜、解体作業中の同球場まで走ってくる様子を1面トップで報じている。

「どんなチャンスが来るかもしれない。そのときに慌てない体力と精神を保ってなければならない」というのが理由だった。

 将来指導者として再び声がかかったときに備えてトレーニングを続けているというニュアンスで、本人も「もしコーチとして野球界にカムバックしたら、自分が先頭に立って引っ張ろうと思ってましたからね」(「豪打列伝」文春文庫)と回想している。

 だが、現役時代に“奇言奇行の人”とも呼ばれた榎本は、当時の年齢も40歳とあって、「現役復帰を目指しているのでは?」「通算打率3割(生涯打率は.298)に挑戦するのでは?」などの憶測も飛び交った。常人の感覚では、コーチになるためにそこまでトレーニングに励むストイックさは、理解の域を超えていたのかもしれない。

 結局、コーチの話は来なかったが、往復40キロ以上のランニングは、70歳を過ぎても、時々やっていたという。

 冒頭の中村同様、引退宣言しないまま現在に至っている選手といえば、阪神のエースとして2度のリーグ優勝に貢献し、ヤンキース、オリックスでもプレーした日米通算95勝の左腕・井川慶の名も挙がる。

 15年に1軍登板ゼロでオリックスから戦力外通告を受けた井川は、練習参加を経て、翌16年12月、独立リーグの兵庫ブルーサンダーズと契約。17年シーズンは、BFL(現関西独立リーグ)の公式戦で11勝0敗、防御率1.09と「納得のいく内容のピッチング」ができたが、待ち望んでいたNPBからのオファーはなかった。

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井川が「引退」を宣言しない理由は?