「海雪」がヒットした初の黒人演歌歌手のジェロ
「海雪」がヒットした初の黒人演歌歌手のジェロ

 日本的なものへのアプローチとしては「おーい、ニッポン」(NHK)の「県のうた」にも触れておこう。各都道府県の魅力を紹介する番組で、そのなかに毎回、地元でオーディションを行い、一般の人たちが地元にちなんだ歌をうたう企画があった。この詞を全49作、秋元が手がけている。

 とまあ、彼は「ひばりとAKBのあいだ」も、精力的に作詞をこなした。そのなかにはねずみっ子クラブ(93年)や湯川専務(98年)のようにコケたものもあるが、ヒットを生み出す打率はどの職業作詞家よりも高かった。というより、Jポップが主流になって多くの人が自作自演をするなか、職業作詞家は演歌やアニソンに追いやられ、対抗できたのは秋元くらいだったのである。

 これはもし昭和後期の一流作詞家・阿久悠が同時代に生きていたとしても、至難の業だっただろう。秋元はタイプの似た阿久に対し、自らを「遠くの弟子」と語るほど敬意を示しているが、ある才能において凌駕している。それは「代弁」という才能だ。

 前出の「秋元流」歌詞カードには、音楽評論家・近田春夫の秋元論も載っている。そのなかで近田は、

「詞によって歌い手のありようを批評的に浮彫にしてみせるという側面を持ちながら、表現自体はきわめて浅く済ませる」

 というところが、秋元の特徴だと分析。その結果「書きたいコトバを書くのではない、その人の口から聞きたいコトバを書く」という独特なスタンスができあがっていると指摘した。

 これはまさに、Jポップの時代にうってつけである。自作自演の魅力とは「その人の口から聞きたいコトバ」をファンがストレートに聴けることだからだ。そんなJポップ流の作詞を象徴するひとりが森高千里。彼女の書くポエム風の詞は等身大の女心がリアルに表現されているとして、ブレーク当時「プロの作詞家にはまねできない」などといわれた。

 が、秋元にはそういう詞が書ける。たとえば「恋するフォーチュンクッキー」(AKB48)において、その詞が初センターを務める指原莉乃にピッタリだといわれたように、自作自演をしない人に代わって「その人の口から聞きたいコトバ」を自在に紡ぎ出せるのだ。

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「私が死ぬときに流れる曲のような気がする」