秋元康
秋元康
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 秋元康。芸能に疎い人でもその名前くらいは知っているほどの大物だ。最近はドラマの企画、原案などでも話題だが、本業は作詞家である。

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 その40年にもわたる作詞活動のなかで、大きな仕事といえるのが、美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」であり、AKB48や乃木坂46などの作品群だろう。

 ちなみに「川の流れのように」は1989年のリリース。おニャン子クラブやとんねるずでの成功で時代の寵児になったものの、作詞家としては色物感もあった秋元が歌謡界の女王と組み、評価を高めた一作だ。

 一方、AKBを立ち上げたのは2005年のことだ(CDデビューは翌年)。おニャン子で培ったノウハウをさらに深化させ、大人数アイドルグループの魅力を追求して、ブームを超えた不動のスタイルを作り上げた。

 しかし、なかには、ひばりとAKBだけの人、みたいに思っている人もいるかもしれない。

 実際、日本レコード大賞での実績を見ても「川の流れのように」が次点に終わったあと、11年にAKBの「フライングゲット」で獲得するまで、大賞とは縁がなかった。

 また、彼はオリコンチャートにおいて217作というとんでもない数の1位シングルを作詞してきたが、その9割以上はおニャン子とAKB・坂道関連だ。おニャン子が解散した翌年の88年から、AKBの本格ブレーク前年にあたる08年までの21年間では、1位シングルは5作しかない。

 ただ、ひばりとAKBのあいだ、ともいうべき期間にこなした仕事がなかなか渋いのだ。時代としては平成前半、秋元が30代から40代にかけて残した作品を検証してみよう。

 まずは、93年の「ポケベルが鳴らなくて」(国武万里)である。不倫を描いた同名ドラマの主題歌で、当時最先端のコミュニケーションツールだった「ポケベル」が効果的に使われた。

 とはいえ、02年に編まれた作詞活動20周年記念盤「秋元流」の歌詞カードのなかで、彼はこう解説している。

「深夜に西麻布のバーで偶然見かけた女の子の、ポケベルを何度も何度も覗いている姿が、なんとも切なくてもどかしく映ったので、その様子を、昔でいう『手紙を待つ女心』を現代風にアレンジして書いてみました」

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