■自宅の寝室に置く地蔵像 「お地蔵さんになりたい」
その後も泉は「行ってきます」「ただいま」と玄関脇の地蔵菩薩(ぼさつ)に毎日、手を合わせた。地蔵は、すべての生きるものを救うまで仏にならないと誓ったという。現役で東京大学に入った泉は、上京間もなく、巣鴨のとげぬき地蔵尊で小さな石の地蔵像を買う。二見のお地蔵さんの代わりである。その地蔵像を、いまも自宅の寝室に置いている。
「お地蔵さんになりたいと思いました。すべての人がしあわせになるのを見届けたい。ゴールに入るのは最後。お地蔵さんには嘘つけません。お地蔵さんに胸を張れる人生を送りたい」と泉は言う。
母は数年前に逝き、80歳まで漁に出た父はいま介護施設に入っている。弟は、その後、福祉系の大学を卒業し、兄が市長に就く20年も前に市の職員に採用されて地道に働く。小さな地蔵像は一家の喜怒哀楽を抱え、ちんまりと枕元に立っている。
東大を卒業した泉は、テレビ局で働いたが、政治にかかわりたくて悶々(もんもん)としていた。そんなある日、書店で『つながればパワー』という本を手に取り、一気に読む。分断された市民が連携すれば社会は変わる、その先頭に立とうとする気概が伝わってきた。著者は社会民主連合の事務局長だった石井紘基(こうき)。泉は長い手紙を書いた。石井から返事がきて会いに行き、秘書を引き受ける。
1990年の衆議院選挙に立候補した石井は落選した。「次こそは」と泉が気合を入れていると、「これ以上、若い君を引っ張れない。いずれ君は政治家になるだろう。その前に弁護士になって人を助けなさい。生活の基盤をつくりなさい。落選を恐れて志を失う政治家になってほしくない。君なら司法試験なんて楽勝だよ」と、石井に言われて進路が定まる。しかし、教育学部出身の泉に司法試験は難関だった。93年の新党ブームで石井は衆院選に当選し、国会の赤じゅうたんを踏む。泉は、4年かけて94年にやっと司法試験に合格。師弟はそれぞれの肩書を得た。
石井は、国会議員の権限を使って防衛庁調達実施本部(現・防衛装備庁)背任事件を追及し、「国会の爆弾男」の異名をとる。特別会計の解明を糸口に国家の闇へと斬り込んでいった。
かたや泉は、明石に法律事務所を開いて犯罪被害者の弁護に心血を注ぐ。知的障害のある男性の交通事故被害では、保険料の支払いを渋っていた保険会社からガッポリ補償金を取った。強引に取り立てるサラ金には、事務所員総出で一日中、抗議の電話をかけ、「仕事にならん。どうかしてますよ」と泣きが入る。「どうかしてんのは、おまえらじゃ。弱いもんに同じことしとるやないか。毎日やるぞ」「堪忍や。もうしません」とやりこめる。泉は「武闘派弁護士」と反社勢力からも恐れられた。