美智子さまが取り上げた詩人の一人に、新川和江さんがいる。産経新聞「朝の詩」の選者だった新川さんの詩で美智子さまが訳したものに「わたしを束(たば)ねないで」がある。『降りつむ 皇后陛下美智子さまの英訳とご朗読』に収められているが、読んだ時の衝撃は忘れられない。こう始まる。
<わたしを束ねないで あらせいとうの花のように 白い葱のように 束ねないでください わたしは稲穂 秋 大地が胸を焦がす 見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂>
以後、わたしを「止(と)めないで」「注(つ)がないで」「名付けないで」「区切らないで」と続き、こう終わる。
<わたしは終りのない文章 川と同じに はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩>
女性が女性であることの苦しさから立ち上がる。その宣言を柔らかく、力強くうたっていると思った。美智子さまがこの詩を選んだ意味を今、改めてかみしめる。皇室の現在と重なる。
12月22日、「安定的な皇位継承のあり方を議論する政府の有識者会議」の報告書が岸田文雄首相に提出された。女性皇族が結婚後も皇室にとどまる、旧宮家の男系男子が養子として皇族復帰する。その2案を政府が検討、国会に報告するという。皇室における「人手不足」対策で、これが喫緊の課題。とは、とても思えない。
眞子さんの結婚から見えてきたのは、女性皇族という存在の曖昧さだと思っている。「男系男子による継承」を定める皇室典範は、女性皇族を「天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」とだけしか定めていない。最初から「男性でない」存在で、公務を懸命にしてもその先が見えない。ここが曖昧なままでは「第2の眞子さん」が出ても、ちっともおかしくないと思う。
だから「わたしを束ねないで」を思う。女性の内なる叫び。女性皇族も女性。そのことを思う。
美智子さまの「言葉の人」を語る上で外せないのが、平成への代替わりに伴って起きた一部メディアによる「皇后バッシング」のことだろう。