1994年、父島での天皇、皇后両陛下(写真中央、肩書は当時)
1994年、父島での天皇、皇后両陛下(写真中央、肩書は当時)

 93(平成5)年10月のお誕生日に美智子さまは倒れ、言葉を失った。だが2週間余り後に、陛下と共に四国へ行く。声を取り戻したのは94年、硫黄島訪問の翌日に訪れた父島で、アオウミガメを放流する地元の子供たちに声をかけた時だ。

 原さんがラジオで語った「国民と接することで感じる手応え」が美智子さまを再び助けた。特筆すべきは、倒れる前に美智子さまが記した誕生日の文書だ。静かな迫力に満ちた「言葉の人」そのものの文章だ。以下、引用する。

<どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。(略)しかし事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません>

 美智子さまは時に、具体に踏み込む。『平成の終焉』の中で原さんは、美智子さまが拉致問題に2度言及したことに触れている。最初は小泉訪朝のあった02(平成14)年の誕生日。「何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません」

◆美智子さまがいま語るのは

 2度目が18(平成30)年、皇后として最後の84歳の誕生日。「陛下や私の若い日と重なって始まる拉致被害者の問題などは、平成の時代の終焉と共に急に私どもの脳裏から離れてしまうというものではありません」

 政治性を指摘されかねないこれらの言葉の裏には、「上皇さまと共に、国民と触れ合ってきた」という自負があるのではないだろうか。陛下も退位をにじませるビデオメッセージ(16年)の中で、こう述べている。

「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」

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