吾妻火砕流は約8kmにわたって山林を焼き尽くし、また、噴出物が吾妻川の河床を埋めたため各地で水害が発生した。噴出した火山岩塊などが固まって残った場所が、現在の鬼押出しである(図版作成/アトリエ・プラン)
吾妻火砕流は約8kmにわたって山林を焼き尽くし、また、噴出物が吾妻川の河床を埋めたため各地で水害が発生した。噴出した火山岩塊などが固まって残った場所が、現在の鬼押出しである(図版作成/アトリエ・プラン)

 地震大国とも呼ばれる日本では、江戸時代にも大規模な地震になんども襲われた。地震で最も有名なのが、安政の大地震であろう。じつは、「安政地震」と呼ばれている地震は大きく二つに分けられる。安政東海・南海地震と安政江戸地震だ。安政東海・南海地震の方は、嘉永六年(1853)二月二日、小田原でマグニチュード6・7の地震が発生。三島などの東海道の宿場町に甚大な被害が出ただけでなく江戸でも地震による火事が起こったという。ペリー来航はこの年の六月三日。おそらくまだまだ続く余震に、おびえていたころ黒船がやってきたことになる。ペリー来航に対して老中・阿部正弘が慣例を破り、外様から庶民にまで広く意見を求めたのは、地震でそれどころではないということだったのかもしれない。

 ペリーが予告通りに再来日を果たした翌年の嘉永七年六月十五日、伊賀上野で前年を超える大型地震が起こる。さらに十一月四日、五日とマグニチュード8・4の地震が起き、太平洋側の広い範囲で津波が起こった。

 つまりペリーとの交渉は、こうした連続する大地震の前後に行われたことになる。このほか嘉永三年、岡山県を中心に台風による水害、同五年に江戸城西の丸が全焼と続く災難のため、同七年十一月二十七日に安政と改元。そのため、嘉永に起こった地震でも安政地震と呼ぶ。

 もう一つの安政地震である安政江戸地震は、安政二年(1855)十月二日の夜、江戸は直下型の地震に見舞われた。町屋だけでなく、大名小路にあった大名屋敷の多くが被災している。この地震に対し、幕府は12の大名家に拝借金を許し、旗本にも無利息で金を貸して、御家人には扶持米を支給。町人たちのためには町会所がお救い小屋を設けた。

 このほか安政三年、安政四年、安政五年と八戸沖を震源とする地震などが連続して起きている。その上、安政三年には、台風が江戸を直撃。この台風の被害をまとめた『安政風聞集』によると、大風が吹き荒れて、築地本願寺の本堂がつぶれたといい、また、芝・品川・本所・深川などの当時海に近い地域で1m程度の高潮に見舞われて、強風も相まって多くの船が打ち上げられ、隅田川に架かる永代橋に流された船が衝突して砕けた。

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