「安政二年江戸大地震火事場の図」は、軟弱な地盤の下町で起きた家屋倒壊と火事で多くの人命が失われた様子を描く。水戸藩の藤田東湖は、母親を助けるために圧死したという(国立国会図書館所蔵)
「安政二年江戸大地震火事場の図」は、軟弱な地盤の下町で起きた家屋倒壊と火事で多くの人命が失われた様子を描く。水戸藩の藤田東湖は、母親を助けるために圧死したという(国立国会図書館所蔵)
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 現代の日本は度重なる災害・疫病に襲われている。だが、江戸時代も多くの災厄に見舞われ、その都度、民衆はたくましく乗り越えた。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.10』では江戸時代の民衆を苦しめた「災害」を解説。富士山の宝永噴火から安政大地震まで、甚大な被害を及ぼした「天下大変」が江戸を襲った。医療・防災が今より乏しかった時代、凶変とともに生きた歴史をたどる。

【地図】火山灰で日照不足となった天明浅間山の噴火被害

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 平成二十三年(2011)の東日本大震災、平成三十年の西日本豪雨など、近年は災害が多いように思われるが、実は、江戸時代も規模の大小はともかく、3年に一度程度、自然災害に見舞われていた。

 最も有名な自然災害と思われるのが、宝永四年(1707)に起きた富士山の噴火であろう。日本一高い山から吐き出された火山灰は偏西風に乗って山の西側、遠く江戸まで運ばれて、これを吸い込んだ人が風邪のような症状を訴えた。

 この噴火に先立つこと49日、宝永四年十月四日、関東から九州にかけてという広域で地震があった。マグニチュード8・6、津波もあり、2万人以上の死者が出たという。さらにさかのぼること4年、元禄十六年(1703)十一月二十三日に相模湾沖を震源とする元禄大地震が発生、1万人以上の人が亡くなったか行方不明になった。

 小田原藩はこれら二つの地震によって被災したところに噴火による火山灰で領地が埋まり、それを除去するだけの体力は残っていなかった。同藩は江戸時代を通して十万石前後で、その半分に近い六万石あまりを幕府が公収し、代わりに五・六万石の土地を美濃や播磨で与えた。江戸時代の藩は、現在の県に比べて強い自治権を有しており、よほどのことがないかぎり、幕府は藩内のことには口を出さないので、相当ひどかったといえる。

 噴火といえば、群馬県と長野県にまたがる浅間山は江戸時代を通して数度噴火している。中でも天明三年(1783)の噴火では、1万5000人以上の人が亡くなったとされる。この噴火によって吹き上げられた火山灰のため日照不足が起こって凶作となり、江戸時代最大の飢饉である天明の飢饉を引き起こした。

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江戸時代にも大規模な地震