苦境にあえぐチームにひと筋の光明をもたらしたのが、4月18日、ブレーブスの二塁手で、73年に43本塁打を記録したデーブ・ジョンソン入団決定のニュースだった。

「狭い日本の球場なら50本以上は打てる」と期待されたが、ジョンソンは本来中距離打者で、本塁打数も73年以外はいずれも20本に満たなかった。

 はたして来日後、大砲の役割を求められたジョンソンは、日本の投手の変化球に手こずり、不慣れな三塁を守らされたことも打撃に影響を及ぼすという悪循環。5月13日のヤクルト戦では、1点を追う8回1死一、三塁でスクイズを命じられたが、外角球にバットを引いてしまうチョンボを犯し、敗戦の元凶となった。

 7月26日のヤクルト戦では、NPB歴代野手ワースト(当時)の8打席連続三振を記録。直近20打席で無安打12三振の惨状に、「ジョン損」の造語まで生まれた。

 打率.197、13本塁打に終わったジョンソンは「これ以上迷惑をかけたくない。来年は巨人でプレーする気はない」と一時は退団をほのめかすほど自信をなくしていた。

 一方、ONから“片翼飛行”となった王は開幕こそ出遅れたが、スタメン復帰後は徐々に調子を上げ、8月上旬までに23本塁打を記録していた。

 だが、ライバル・田淵幸一(阪神)に10本差をつけられ、チームの成績同様、タイトル争いも大苦戦とあって、8月12、13日の直接対決では、田淵に本塁打を打たせないための変則シフトもお目見えした。

 走者がいるときは勝負を避けて歩かせ、無走者の一発狙いの場面で田淵が打席に立つと、レフトがラインギリギリ、センターがレフトの定位置、ライトが右中間を守るという“田淵シフト”で対抗したのだ。

 ところが、そんなときに限って、打球は人のいないところへ飛ぶもので、まさかの2試合連続三塁打を献上。足が遅く、ランニングホームランは至難の業であることから、漫画の中で「あり得ないこと」を意味する“タブラン”なる新語も生まれた田淵に2試合続けて余計な進塁を許したのも、暗黒期を象徴するような珍事だった。

 同年、田淵は43本塁打で初タイトルを獲得し、王のキング独占は13年で終止符を打った。

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